東京裁判(極東国際軍事裁判)

この「裁判」を一言で簡単に説明するとすれば「戦勝国による復讐の儀式、茶番劇、インチキ劇、リンチ」あたりの表現が最適で、詳しく学ぶ時間のない人はそう覚えておけば世間で赤っ恥をかくことはない。
法的根拠がどこの国の法律、国際法に照らしても皆無というお笑い劇だった。
このお笑い劇で戦勝国が狙ったのは「復讐」「日本人の洗脳」「白人のアジア侵略の歴史の帳消し」の3つである。この茶番劇(裁判)は昭和21年(1946)5月3日に開廷され、昭和23年(1948)11月12日に判決が申し渡されるまで2年6ヶ月もの歳月を要した(ドイツでの茶番劇ニュルンベルク裁判は10ヶ月だった)。

  ニュルンベルク裁判

検察側の起訴状の内容は、「東條英機元首相以下28人の戦犯は共同謀議を行っていた。目的は侵略による世界支配である。その目的を果たすために通常の戦争犯罪のほかに、「平和に対する罪」、「人道に対する罪」を犯した」とするもの。「日本は世界征服をたくらみ、アジア各国を侵略していった」というのだ。
「A級戦犯」が起訴されたのは昭和21年4月28日、昭和天皇の誕生日だった。このことからも戦勝国による執念深い復讐劇だったことがわかる。

  東京裁判の判決
  東京裁判が茶番劇の理由

この「裁判」に検事と弁護人がいたことは救いだった。これにより公正の歴史を調べる人間にとって大変貴重な資料が残ることになったからである。検事側と弁護側が激しい論争を行い、もしもこの「裁判」がなかったならば知られなかったであろう当時の日本の歴史と、そこに動く人間たちの行動、あるいは対応する諸外国の動きを実に明快に描き出してくれたのだ。

現在、国際法学者の間では、この「裁判」は完全に否定され、不法なものであったということが定着している。裁判に加わった多くの判事も帰国後、裁判の不当性、違法性を証言している。現在、この茶番劇(東京裁判)の判決を信じている者は日本人くらいといわれている(自国の政権に捏造された歴史を強制的に学ばされている支那、朝鮮、ロシアなどはもちろん除く)。

  国連国際法委員会

この「裁判」を開廷させた当の本人であるマッカーサーは、日本を侵略国として裁いたのは間違いだったと認めている。東京裁判結審2年後の昭和25年(1950)10月、ウエーク島で大統領のトルーマンと会談したときに、「東京裁判は誤りだった」と認めた。また、昭和26年(1951)5月にはマッカーサーは上院の軍事外交合同委員会で「日本の戦争は自衛戦争だった」ときわめて重大な証言をした。

  マッカーサー重大証言

当のマッカーサーが認めたにもかかわらず、日本政府は一度たりともこれらの証言に触れていない

日本弁護団の清瀬一郎博士が裁判冒頭、裁判の管轄権法的根拠を問うたが、オーストラリア人の裁判長、ウェッブは「後日説明する」と述べたが、最後まで答えることができなかった。
実際には東京裁判所条例(憲章)という、東京裁判のためにマッカーサーが作った単なる占領命令が根拠だったわけだからウェッブは答えることができなかったわけだ。

  東京裁判所条例(憲章)

採用された資料はほとんど全て連合国側のもので、日本側が出した資料のほとんどは却下された。日本側の弁護は黙殺された。要するにこの裁判の真の目的は日本を徹底的に貶めることであり、真実を探るという目的などまったくなかった。
裁判でも検察側の提出した証拠はどんどん取り上げるのに、弁護側の証拠はほとんど却下されてしまった。却下されたのはそれらの資料に妥当性がなかったからではなく、弁護側が出した資料だから却下されたのである。

戦勝国は「日独ファシズム」などという概念を持ち出して日本を裁いたが、これは単なるアメリカとイギリスのプロパガンダに過ぎなかった。また「南京大虐殺」なるありもしない出来事をでっち上げた。いくら調べても日本人の残虐性を証明できずに焦っていた連合国は、ナチスのユダヤ人大虐殺に値する残虐事件を欲していた。

そんなインチキ「裁判」の中でも立派な外国人もいた。
インドのパール判事やアメリカのブレークニー弁護人、ローガン弁護人などである。

  パール判事
  ブレークニー弁護人
  ローガン弁護人

しかし、彼らの弁論の同時通訳は直ちに切られ、日本の新聞に載ることもなかった。

結局、この裁判のメインテーマだった「侵略戦争の共同謀議」は証明できなかった。そんな事実がなかったためであるが、判決では25人が「A級戦犯」にされ、東条英機など7人が死刑となった。

  東京裁判判決
  「A級戦犯」7人処刑

東京裁判以外にも各国でインチキ「裁判」が行われ、1000人近くの日本兵が「B級戦犯、C級戦犯」として処刑された。
このような悪辣な裁判で生まれた歴史観(東京裁判史観という)がいまだに日本人の中に巣食っている。

  東京裁判史観

端的に言うと、東京裁判とは、大東亜戦争に負けた日本に、白人500年の侵略と残虐、植民地支配の罪をすべて転嫁するための大芝居だった。この結果、日本人は、何もかも日本が悪いと戦争犯罪意識を刷り込まれ、反省自責の自虐史観にこだわり、敵側の陰謀の世界史を目隠しされてしまった。この虚偽の歴史観で謝罪を国是とする戦後体制が構築された。

この茶番劇はニュルンベルク裁判とはかなり異なるものだった。ニュルンベルク法廷が裁きの対象としたのは、あくまでもナチス・ドイツであって、ドイツ人ではない。ナチスの幹部の悪事を裁いただけのことである。かたや東京裁判は、日本の歴史、日本国及び日本人を裁くために行なわれたものだった。

一番の問題は、東京裁判自体の真相がいまだ正式には再検証されておらず、一般の知識となっていないことである。東京裁判については、当時の日本の弁護士として大活躍した清瀬一郎博士や菅原裕氏、瀧川政次朗博士などが書いたものが残っていて、それを読めば裁判のインチキ性がよくわかるのに、これが常識になっていない。国際法的には佐藤和男氏の研究もある。しかも、その東京裁判によって作られた歴史観に基づいて戦後日本のすべてが組み立てられてきたということも理解されていない。これが東京裁判史観という見方である。
この裁判によって日本という国全体が歴史も文化も含めて裁かれたのであるが、それが知られていない。裁判の場で出た具体的な日付としては昭和3年(1928)からだが、実際には明治以降のすべてが裁かれた感じである。
あれが裁判の名に値するものであったと認める国際法学者は今、世界にただの一人もいないといわれている(支那、朝鮮、ロシアなどの全体主義国は除く)が、日本人の多くはそれを知らない。事実を何も知らないまま、日本人は一方的にあの戦争で悪いことをしたと信じ込まされている。いま、さまざまな形で語られている戦後の問題-憲法、教育基本法、皇室典範も、すべてそこから導き出されるものである。

日本を徹底的に悪者に仕立てるために、判事や検察はどんな詭弁も弄した。たとえば、蒋介石が逃げ込んだ重慶を日本が爆撃したことに対して、検事が日本の支那に対する侵略の罪を問うた。清瀬弁護人は、「アメリカはその何十倍の規模の無差別爆撃をやっているではないか、原爆まで落としているではないか」と反論した。そのとき裁判長のウェッブは「ここにある泥棒が裁判所において私(甲)は泥棒をしたかもわからぬが、私の知っている(乙)も同様泥棒をしました、ということで抗弁ができるであろうか」とほざき、この証拠は関連がないからとして却下した。こういう無茶苦茶な論理を強引に押し通して、日本を断罪することだけが目的の裁判が進められていったのである。

結局、この裁判は日本を侵略者に仕立て上げる連合国・アメリカの戦略の一環に過ぎなかったが、勝者に媚びた輩が多数いる。
東京裁判当時東大教授だった横田喜三郎はその典型である。

  横田喜三郎

  大東亜戦争・東京裁判に関する発言

東京裁判の枠組みは、ニュルンベルグ裁判を基本にしている。これがそもそもの間違いである。

  ニュルンベルク裁判

ニュルンベルグ裁判ではナチスを裁いたわけだが、ナチスはヒトラーが政権を取ってから共同謀議を行い、世界征服を目指したという事実がある。しかし、これについても事後法で裁いたと、国際法学者からは反対があった。
ただし、ナチスはドイツ国民であるユダヤ人を大量に虐殺しているのだから、戦後には国際法ではなく国内法でも裁けただろう。ドイツが今でもナチスを処罰の対象にしているのは、ナチスがそれまでのドイツの法律を破ったからであるとされている。また、ナチスの悪はあまりにも明瞭だったので、ニュルンベルグ国際裁判も当然と思われた。
これを日本にそっくりそのままあてはめて裁こうとしたことに、そもそも無理があった。

東京裁判では、戦犯の分類をABC(元来はabc)としている。しかし、Aが最も悪いというわけではなく、イロハとしてもいい。イ類、ロ類、ハ類と分類してもよいものだった。
A級は戦争を始めた国家指導者など。B級は通常の戦争犯罪である捕虜虐待などを命じた戦場の指導者、C級はそれを実行した兵隊など。東京裁判はこのうち、Aのグループを裁いたものだった。

  「A級戦犯」
  「B・C級戦犯」

A級に対する訴因は55もあるのだが、それは3つに分けられた。
第一類は平和に対する罪ナチスのような共同謀議があったとするものだ。
第二類は殺人及び殺人共同謀議の罪。宣戦布告する前であるから、真珠湾攻撃などで兵隊を殺したのも殺人だと言っている。しかし、宣戦布告前の殺人というのは裁判ではあまり問題にならなかった。
第三類は通常の戦争犯罪及び人道に対する罪である。これはナチスのホロコーストなどを念頭において作られた罪だ。

第三類の人道に対する罪は、誰がどう考えてもアメリカによる東京大空襲のような無差別爆撃や広島、長崎原爆投下のほうが当てはまるだろう。だから、人道に対する罪だけで死刑になった人はいなかった。
では、死刑になった7人の人たちは何によって裁かれたかというと、第一類や第二類とともに第三類の罪に問われている。
第三類には通常の戦争犯罪、つまり捕虜虐待などが入っている。A級の人たちが直接、捕虜虐待をするわけはないのだが、それを止める立場にありながら止めなかったというこじつけで罪に問われた。
つまり、平和に対する罪や人道に対する罪だけで死刑にされた人はおらず、通常の戦争犯罪、つまり捕虜虐待関係の責任とともに、合わせて一本ということで死刑になった。このことが、いかに平和に対する罪や共同謀議や人道に対する罪だけで裁こうとしても裁けなかったかということを物語っている。

裁判では戦争準備も共同謀議とされた。たしかに、日本は戦争の準備をし、軍艦や飛行機、戦車を作った。しかし、それはどこの国でもやったことだ。ナンセンスな話である。そんなことを言い出したらアメリカの太平洋艦隊のほうがよほど共同謀議だと言える。

ソ連の問題
ニュルンベルグ裁判の時も、英米仏に加えてソ連が参加した。たしかに、ソ連はドイツに攻め込まれたと言ってもいい国だ。しかし、東京裁判にソ連は判事や検事として参加する資格は全くなかった。その上、東京裁判が日本を裁こうとして挙げた理由は、全部すでにソ連が犯しているのである。
日ソ中立条約を破棄し(日ソ中立条約破棄)、一方的に攻め込んだ暴虐の限りを尽くし、しかも60万人もの捕虜を自国に抑留して(シベリア抑留)、戦争が終わっても国際法に違反して返さない。また、ポツダム宣言では領土的な問題は入らないにもかかわらず、日本固有の領土を奪った(北方領土占領ソ連による樺太での虐殺)。
さらに悪質なのは、日露戦争からシベリア出兵ノモンハン事件張鼓峰事件まで持ち出してきたことだ。全部、すでに和平条約で決着のついた話である。共同謀議とは何ら関係ない。

日本はアメリカと交渉しながら時間稼ぎをし、戦争準備を進めたという。これは全くの逆で、時間稼ぎをしたのはアメリカだったアメリカは最初から日本と話し合いで解決するつもりがないまま交渉を続けていたことは、すでに明らかになっている。日本は話し合いが延びれば延びるほど、手持ちの石油が減っていくのだから、時間化石などするはずがない。しかし、アメリカはいくらか交渉が長引いても痛くも痒くもなかった。そして、アメリカはハル・ノートを突き付けた。ハル・ノートは、いかなる国でも受け入れ難きものであって、パール判事はあるアメリカ人の歴史家の言葉を引用して次のように言っている。
「こんなものを突きつけられたらモナコやルクセンブルクでも銃を持って立ち上がるだろう」と。
アメリカは当然、日本がハル・ノートを宣戦布告だと受け取るだろうことを知って、突きつけたのだ。実に悪質である。
これには東條被告も、「絶体絶命の状態に追いつめて、日本から手を出させるのを待つというようなことを文明国がやるとは思わなかった」と、宣誓供述書でそういう趣旨のことを言っている。

東京裁判において、日本の弁護団や証人が主張したことで重要なのは、大陸における共産主義の脅威である。ロシア革命が成功してソ連という国が誕生しなかったら、満洲事変もなかったであろう。
もしも無抵抗でいたら大陸が全部共産主義に支配されてしまう。満洲でも北支那でもそれがガンだったと言っている。にもかかわらず、ソ連から判事や検事を東京裁判に呼んでいる。弁護団の主張が通るわけがない。大陸における共産主義の問題は裁判ではまともに取り上げられなかったのである。
そして、東京裁判が終わって2年経つか経たないかのうちに、朝鮮戦争が起こった。その前には蒋介石政権が崩壊している。あっという間に、支那もモンゴルも満洲もシベリアも東アジア全大陸が共産主義になった
日本が言ったことが正しかったのだ。マッカーサーはそれに気づくのが2年遅かった。だから朝鮮戦争が2年半早く始まっていれば、東京裁判は日本を裁くことができなかっただろう。日本の一番の主張が証明されたわけだから。
朝鮮戦争が始まるや否や、アメリカもマッカーサーも日本の主張が正しかったことに気づいたので、即、サンフランシスコ講和条約を結んだのだ。

東京裁判は、日本をあの手この手で裁こうとしたが、その”罪状”は全部、それまで連合国が行ってきたことだった。これをはっきりと書いたのは、ヘレン・ミアーズ著「アメリカの鏡・日本」である。

東京裁判では日本が九ヶ国条約を破ったなどと言われた。

パール判事もモーリス・ハンキーも、この国際法によらない戦争裁判というのは、「戦勝国は敗戦国に何をしえもいいということを証明したにすぎない」と言っている。つまり、この裁判が戦争を止める契機にはならず、何が何でも勝たなくてはならないという覚悟を決めさせただけのものであるということだ。

アメリカは今、イラクから引き上げたくてしようがない。しかし、引き揚げられない状態にある。日本も当時、支那から引き上げたくてしようがなかった。終始一貫、いかに引き上げるかを考えていた。それでも引き上げることができなかったのは、アメリカやイギリスが蒋介石に限りなく援助をしたからだ。重慶の山の中にいて、鉄砲一つ作れない蒋介石に、アメリカは飛行機でも武器でも、中立国の立場を超えた規模の援助を限りなく与え続けた。
今のイラクでも、アルカイダが武器を供給しているから、まだテロが終わらない。これに加えて、もしもイラクやアフガニスタンの反米分子に中国やロシアが武器を遠慮なく大量に援助したらどうなるのか。今なら、アメリカも支那事変における日本の立場がよくわかるのではないだろうか。

東京裁判について読むべき本:「東京裁判」を裁判する (渡部昇一)


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参考文献 歴史年表