国家総動員法

企画院が設立された次の年の昭和13(1938)年、国家総動員法が制定され、日本は国家総動員体制となる。
これは国家が人的資源および物的資源を自由に統制運用できるとしたもの。総じて言えば、国民の自由意志ではなく国家命令が、国家全体の経済活動を動かすと定められた。
まさに統制経済が行きつくところまで行ったという感がある。何しろ、この体制では釘一本、人ひとりを動かすのでも、政府の命令、つまり官僚が作った文書が必要なのである。
これにより自由主義経済は完全に封じられ、日本は、全体主義的な命令経済の国になった。
こうして大正デモクラシーが育てた政党政治は、もろくも崩れ去った。

敗戦によって全体主義の軍人たちはいなくなったが、官僚とその組織はなくならなかった。GHQは官僚組織の上層部にいた連中を飛ばすことはできても、その下にいる人々をクビにできなかったし、統制的な法律も残した。それで敗戦後も日本は統制経済が続くことになった。たとえば、戦後50年間にわたって維持されてきた食管法(食糧管理法)も、戦時中の配給制度のために作られた法律である。また、現在の不動産所有の形の原型を作った地代家賃統制令なども、昭和14年に公布されている。
このような法律は、終戦後の混乱期には意味があったかもしれないが、その後、環境が変化しても一向に廃止にならなかったのは、戦時中の強権を手放したくないという官僚の論理によってである。

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参考文献 歴史年表