支那事変拡大とともに、支那における日英間の軋轢も増大したが、昭和14年4月、中華民国臨時政府によって任命された海関監督が転身のイギリス租界内で暗殺される事件が発生した。その犯人の引き渡しをイギリス側が拒否したため、日本現地軍は6月14日から英仏租界を封鎖する事態となった。 天津の英仏租界は国民党特殊工作機関及び共産党抗日分子の隠れ家となっていたのだ。 この背景には、支那事変勃発以来、イギリスが陰に陽に支那を援護し、日本を過度に非難する傾向があり、それが日本軍の作戦に多大の不利を与え、日本軍の対英感情も相当悪化していた事情があった。 この天津英租界封鎖をめぐって、7月に入って2回の有田・クレーギー会談が開かれた結果、イギリス側が支那における日支交戦の現実を承認し、日本軍に対する利敵行為を排除する必要を認める旨の協定が成立してこの問題は決着した。 これに対しアメリカはイギリスの対日融和姿勢に不満を持ち、有田・クレーギー会談の4日後、突如、日米通商航海条約の一方的な廃棄を日本に通告してくる。 日米通商修好航海条約破棄通告(1939年7月) 参考文献:大東亜戦争への道(中村 粲著) |
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