南部仏印進駐、アメリカの日本資産凍結、対日石油禁輸などの諸事態により日米関係は著しく険悪化した。近衛文麿首相は危機打開に腐心していたが、8月に入ると自らアメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルトと会見する決意を固め、陸海軍の賛同も得た。危機一髪のときにアメリカ大統領と会談し、日本の真意を率直に語り理解を得ようとの意図からであった。 日米首脳会談の提案は昭和16(1941)8月8日、野村大使よりアメリカ側に伝達されたが、ルーズベルトはチャーチル(イギリス首相)と洋上会談(大西洋会談)のため不在で、伝達は国務長官のコーデル・ハルになされた。 大西洋会談(1941年8月9日〜14日) ハルは「日本の政策に変更のない限り、これを大統領に取り次ぐ自信がない」「首脳会談には予備会談が必要」などと述べて冷ややかな対応を示した。 大西洋会談でイギリスへの戦争協力を決定しているため、こんな反応しかしなかった。 |
参考文献 | 歴史年表 |