昭和16(1941)年12月8日、マレー半島に敵前上陸して、快進撃をもってマレー半島を南下した。 マレー半島上陸 進撃があまりに急であったため、いたるところでインド兵が捕虜としてとらえられた。当時F機関と称する、藤原大佐を長とする民間人を交えた一握りの工作機関が、このインド兵捕虜を編成して「インド独立国民軍(INA)」を創設した。難攻不落を誇ったシンガポール攻略戦には、インド国民軍は非常なる勲功をたてた。シンガポールのインド兵を加えて、国民軍は総勢4万5千に膨張した。ラス・ビバリ・ボースを主席とするインド独立連盟がバンコクに旗揚げするや、国民軍はこの中に移管されたが、やがてインドの革命児チャンドラ・ボースが出現するに及び、国民軍はあげて彼の指揮下に入るとともに、ビハリ・ボースの独立連盟も彼の手にゆだねられ、、1943年7月3日、自由インド仮政府が誕生した。 チャンドラ・ボースという偉大なる指導者を得て、インド国民軍は奮い立った。精鋭1万5千に選りすぐり、これを三連隊に分けて徹底的な訓練を施した。 1944年4月、ビルマのポパ山の戦闘において、インド国民軍は初めてイギリス軍と交戦し、これに大打撃を与え、初戦において凱歌をあげた。 やがてインパール作戦となるのであるが、ボース率いるインド国民軍は、お粗末な装備であったが、三連隊雁行して、祖国へ向かった。 合言葉は「インド万歳」「征け、デリーへ」であった。国民軍はこれを口々に唱えて、意気まことに軒昂たるものがあった。 雨期にたたられたインパール作戦は、日本軍の惨憺たる敗北に終わり、終戦がやってきた。 チャンドラ・ボースは、終戦の詔勅が発せられてから三日目、1945年8月18日、台北飛行場で、搭乗機の事故のため死亡。 三連隊長はじめ生き残ったインド国民軍将兵は、ビルマでイギリス軍に捕らえられ、ニューデリーで軍事裁判にかけられた。 ニューデリー軍事裁判 |
参考文献 | 歴史年表 |