1956年、支那共産党は「百家斉放 百家争鳴」という運動を展開した。これは政治批判を歓迎する大衆運動で、共産党独裁の支那では現在でも容認されない画期的な政策だった。 支那の知識人たちは言論の自由を毛沢東・支那共産党が保証したものだと思って率直な意見を発表しはじめた。ところが支那共産党による独裁、毛沢東や周恩来の批判まで及ぶと、1957年6月8日、毛沢東は「組織的な力で右派分子の狂気じみた攻撃に反撃せよ」という指示を出した。「百家斉放 百家争鳴」運動は最初から毛沢東の仕組んだ罠だったわけだ。 支那共産党はただちに全国各地で右派分子の取り締まりを始めた。1957年末までに55万もの人が「右派分子」という無実の罪を着せられ、市民権を剥奪され、辺地での強制労働に駆り出された。 この反右派闘争によって共産党に反対意見を持つ知識人などが一掃され、支那共産党の独裁は大幅に強化され、共産党内でも毛沢東の権力がさらに強化された。 大躍進 文化大革命 六・四天安門虐殺(事件) |
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