六・四天安門虐殺(事件)

1989年6月4日に発生した支那共産党政府による民主化弾圧事件。支那では「六四天安門事件」と言うが、欧米では「天安門大虐殺」と呼ぶ。
自由と民主主義を求める学生・市民が軍隊に攻撃され、北京で死者1万人、負傷者はその倍、北京以外では死者2万人、負傷者4万人 の被害が出た、と国際アムネスティその他の人権擁護団体は推定している。
戦車が天安門広場に集まった民衆に突っ込み、蹂躙する有様がテレビに映し出された。支那が一党独裁の強権国家で、国民はまったく非民主的な政府に抑圧されていることを改めて世界に示した。
国際世論は硬化し、経済制裁を課する国が続出した。支那共産党は困り、国際世論をなだめ、制裁を解除してもらうために思いついたのが日本を利用することだった。悪人として常に批判している日本の天皇を招き、友好的な姿勢を演出して見せて国際世論を軟化させようと目論んだ

  天皇訪中

支那のこの意図は成功し、ヨーロッパ諸国がこれに反応し、制裁を解いて門戸を開いたのだ。
当時、支那の外交を担当した元副首相・銭其シンは、天皇訪中は自分が企んだことで、自分の功績だと自慢げに語っている。

事件後、人権擁護の視点で欧米から経済制裁を受けた。そのとき、ケ小平は「もし現政権が崩壊したら億単位の難民が周辺諸国に流出するが、それでもいいのか」と恫喝した。

  反右派闘争
  大躍進
  文化大革命


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参考文献 歴史年表