オランダのインドネシア搾取のひどさはあまりに有名だが、オランダ人の有色人種への蔑視は格別のものがあった。 蘭領東インドに在住していたビンネルツの日記には日本人に関する印象がこう書きとどめられている。 「日本人は背が低く不潔で、曲がり脚の猿のように醜く、動物の檻に群う臭気と同じくらい強烈な鼻をつく体臭がする」 アメリカは昭和16年、在米日本人の資産を凍結したが、オランダもそっくりならい、蘭領東インドも日本人資産の凍結を行い、当時、約6千人いた在留日本人を追放した。そして戦後もオランダの日本への報復は続いた。 戦時中に日本兵に抑留されたオランダ人たちは、旧日本軍兵士の裁判を実施、連合国中最多の224人を処刑した。オランダ政府も、連合国で唯一、戦時賠償金を日本政府に要求し、多額の金銭賠償を日本からもぎとった。 インドネシアでオランダからの独立運動が起こったのは、対日報復の最中だった。4年間の独立戦争の末、オランダは渋々インドネシアの独立を承認するが、この条件が法外なものだった。独立容認の賠償として以下のものをインドネシアに要求した。
インドネシアのオランダからの独立戦争ではオランダが戦闘機、戦車など近代兵器と10万人の兵士を送り込んで、子供、女性を含め80万人もの現地人を虐殺した事実も確認されている。しかし、それに対する補償はもちろん、植民地時代に対する償いや謝罪などオランダは一切やっていない。 インドネシア政府は、上記のひどい条件をやむなく受け入れ、やっと独立を果たす。 それから50年後、オランダ政府はふてぶてしくも日本軍が戦時中、オランダ人の資産を奪った疑いがあると調査を行った。調査結果が発表になり嫌疑は晴れたが、抑留者グループはいまだに賠償を求める裁判を起こしているからあきれる。オランダが凍結の名で奪った追放在留日本人の資産についてはまったく調べもせず、一方的な論理を押しつけて、報復を続けているのである。 「東京裁判」のオランダ代表判事レーリングも、「太平洋戦争は人種差別が主因のひとつだった」と分析している。 オランダ出身のフランクリン・ルーズベルトの「劣等アジア人種」の品種改良計画 |
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