慶応4年3月14日(1868年4月6日)に明治天皇(当時15歳)が京都御所にて公卿や諸侯などに「五箇条の御誓文」を示した(慶応4年は明治元年だが、明治改元は9月なので4月はまだ慶応4年)。 これが明治政府の基本方針(国是。・国策)である。 そこでは、議会を設置し、公論(公議輿論)に基づいて政治を行うこと、言論活動を活発にすること、などがうたわれている。これによって日本が世界の文明を取り入れ、近代的な立憲国家として発展していく方向が切り開かれた。 明治政府は新国家建設の目標を立憲君主制による国民国家の形成に定めた。これは五箇条の御誓文の根本の趣旨である。それと同時に、対外的には万国公法(国際法、国際習慣)に倣うということ。対内的には富国強兵を国策の根幹に掲げ、文明開化・四民平等・国民皆兵・国民皆教育・殖産興業を個別課題として追求した。多くの国民もこれらの必要性をよく理解して新国家建設に尽力・邁進した。 帝国主義の時代は、国家・国民の全体的な意思統一や社会諸力の結集なくしては国家の主権独立を維持するのは非常に難しい時代だった。立憲政治体制の構築と経済力の裏付けをもった国防力の構築、つまり富国強兵を国策の柱においたことは実に時代状況にふさわしい選択だった。 教育勅語口語訳(「新歴史の真実」より)
このように高潔で気高い精神に貫かれている。 この精神が具現化されたものが教育勅語であり、大日本帝国(明治)憲法である。戦前日本の精神と行動は、すべてこれによって貫かれたのである。 教育勅語 大日本帝国(明治)憲法 明治、大正、昭和1ケタ生まれまでの日本人は、教育勅語をお経のように諳んじていた。この思想は、民主政治を天皇自ら示したもので、デモクラシーの考え方と実践は、明治維新にすでに始まっていたのである。 この日はまた、御誓文の趣旨を解説した「億兆安撫の宸翰(おくちょうあんぶのしんかん)」が全国に発せられた。 そこには、国際世界が大いに開け、西洋列強がたくましく膨張している。そういう時局にあたり日本だけが旧習を固守していると列強から侮られると書かれている。 ここには外圧の危機に対処するための重大な覚悟と政治課題が明記されている。明治維新とは民族の尊厳と生存をかけた国家運動の出発点であると、そう表明している。この精神を尊重して明治・大正・昭和、三代の国民国家形成史は進展し、有色人種としては唯一、欧米列強に並立する強国に発展できた。近代日本の歴史は欧米列強という強力な覇権勢力に圧倒されずに国家の自主独立・民族自決権をいかにして確立するかという、そのような歴史の見方・歴史観である。 東京裁判史観や講座派史観によると、「五箇条の御誓文」は明治国家が当初から侵略意欲たくましかった、その証拠だということになる。 「天皇の人間宣言」 |
参考文献 | 歴史年表 |