講座派史観

コミンテルンから27年テーゼ32年テーゼという指令を受けた日本のマルキストの主流派はこの革命指令を金科玉条のように押し戴き、それに忠実に、天皇性及び資本主義発達の歴史を図式化してみせた。そして昭和7(1932)年から翌年にかけて「日本資本主義発達史講座」という学術論文が刊行され、時の知識階級に非常に大きな影響を及ぼした。
歴史の発展段階論から見れば日本の歴史は大変後れていて、現段階は封建的絶対主義であり、未発達の日本資本主義はインド以下の過酷な搾取体制で、侵略主義的軍国主義だと主張している。これを講座派史観という。
しかし、日本共産革命は天皇制打倒を目指す日本の歴史の否定だから、当然、時の政権は治安維持法によってこれを抑えつけた。戦後はそれが、戦前の国家権力はいかに悪辣であったかということの証左として特筆大書きされ、いまでも教科書などではそうしたトーンで教えられている。
実際に、戦後は占領軍の強力な支援を得て、この講座派理論は活き活きと復活した。絶対主義天皇制の軍国主義的支配階級は人民を搾取し、アジアに市場を求めて侵略戦争に明け暮れ、そして国民を悲惨のどん底に陥れたのみならず、あくなき侵略主義の毒牙は近隣諸国にも多大の損害と苦痛を与えた - というかたちで、史実に基づかない恣意的な歴史物語が作り上げられた。祖国の歴史の栄光のみならず、国家という大事な存在そのものをも否定し、日本人に自己卑下の心を植え付ける物語である。コミュニストが願望する共産革命編歩道筋を合理化し、人民の支持を獲得するための革命戦略論である。こんなものでも、古今未曾有の大敗戦の衝撃を受け、国家指導者を呪詛し憎悪する敗戦国民の心理、あるいは未来の理想郷を夢見る青年の心には訴える力を持ったのだ。

GHQはウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムを政策指針にして、日本民族の劣弱化工作を強力に推進した。それにうってつけの洗脳教材としてこの「講座派史観」を活用した。つまり、大東亜戦争とは、歴史の発展に後れた野蛮な日本軍国主義がアジア制服の大野望、ひいては世界征服の大野望をもって仕組んだ邪悪な侵略戦争だった。平和と民主主義を守ろうとする米国を先頭にした連合国(ソ連も支那も含む)が、それを打破した、とした。これが東京裁判史観である。

  東京裁判史観

祖国の歴史を軽蔑し嫌悪するコミュニストたちも、自分たちの企てる共産革命にとっては渡りに船とばかり、GHQに阿諛追従した。彼らの多くは大学や学校教育会や言論界の主流に陣取って活発に動き回り、国民全体に「講座派史観(自虐史観)」を植え付けた。
昭和27年4月、サンフランシスコ講和条約発効で占領軍の主力は本国に引き揚げた。それ後を受けた日本人マルキストおよびそのシンパは、日本共産党、日本社会党、あるいは進歩的文化人や日教組幹部、さらには朝日新聞や岩波書店の雑誌「世界」を舞台にして、戦前を否定する一方、占領憲法や教育基本法護持の運動にまい進した。
現在に至るまで、日本の小・中・高等学校の社会科や歴史の教科書にはこの「講座派史観」の残影がいまだに濃厚にある。むしろ、本質を保ちながら、内容を隠微に変形させて増殖しているありさまである。

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参考文献 歴史年表