教育勅語

明治期の日本の一般民衆は神仏を拝み、悪いことをしたら罰があたるという思想が定着していて、近隣住民とも密接な関係を持っていたので、お互いに不義理なことをしないという意識の中で治安が保たれていた。一方、知識階級は、漢文を読んで、儒教の倫理を実践しようとしていたが、儒教の本場の支那はアヘン戦争以来やられっぱなし。そんな国の道徳を学んでいいのか、と疑問を抱いているときに、キリスト教が入り、そこに進化論が加わり、当時の知識人は非常に混乱した。明治天皇が心配し、儒学者の元田永孚(もとだながざね)と明治憲法を執筆した井上毅が話し合って、どの宗教とも関係なく、どの時代のどこの国に持っていっても文句が出ないような徳目を考えた。それが日本人の道徳律といえる「教育勅語」である。これは1890年に発布され、戦前の学校教育では絶対の柱として据えられていた。
大日本帝国(明治)憲法は道徳を説いていなかった。それを補うものとして教育勅語が作られたわけだが、定められている道徳は、古来より日本人が守ってきたことだったので容易に国民に受け入れられた。(教育勅語の口語訳は下に載せてあります。)

「西洋の教育勅語」といえる「モーゼの十戒」と比較すると面白い。キリスト教の教えの基本中の基本であるモーゼの十戒で述べられている戒めは、第一に「汝殺すなかれ」、第二に「盗むなかれ」、第三に「騙すなかれ」、そして「姦淫するなかれ」と続く。

教育勅語の精神の元になったのは、明治になる直前の1868年に発布された「五箇条の御誓文」である。この精神が具現化されたものが教育勅語であり、大日本帝国(明治)憲法である。


教育勅語口語訳(国民道徳協会訳文による)
私は私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現を目指して、日本の国をおはじめになったものと信じます。
そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、美事な成果をあげてまいりましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。

国民の皆さんは、子は親に孝養をつくし、兄弟、姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲むつまじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じあい、そして自分の言動をつつしみ、すべての人々に愛の手をさしのべ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格をみがき、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心をささげて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。

そして、これらのことは、善良な国民としての当然のつとめであるばかりでなく、また、私たちの祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。

このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私たち子孫の守らかければならないところであると共に、このおしえは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、父祖の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。

原文はこちらで読めます。

教育勅語は1948年に失効するわけだが、GHQ(進駐軍)は元来、教育勅語を敵視してはいなかった。教育勅語は明治天皇自身の言葉として発表されたもので、法律ではないので議会が廃止する権利などそもそもない。廃止することになったのは、進駐軍が教育勅語をなくせといっているようだと密告した者がいたためである。左翼の教育学者たちから軍国主義につながるなどということが占領軍に告げられ、文部省は怖気づいて議員に伝え、戦後の公職追放令を恐れた日本の議員たちはそそくさと廃止宣言したのだ。

これに代わるものとして、占領期間中につくられたのが、教育基本法である。

  教育基本法


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参考文献 歴史年表