1904年の日韓新条約、ついで日露戦争終結後の協約により、韓国は日本の「保護国」となっていた(当時、フランスの保護下にあったモナコのように、独立国でありながら他国に外交権を委任することはヨーロッパによく見られたことだった)。 日露戦争に勝ったことで日本はロシアの朝鮮半島南下を食い止めることができた。明治維新以来、日本にとって最大の懸案であった朝鮮半島の自立と近代化がこれで進展することになった。 協約によって韓国統監となった伊藤博文は併合しないと主張していたのだが、条約を守ろうとしない韓国を併合せざるを得なくなる。 そして韓国人テロリストが伊藤博文を暗殺するというとんでもない事件が起こった。 日本政府が驚愕し、日本人が激怒したのはもちろんのこと、韓国政府、朝鮮人は震え上がった。 伊藤博文の暗殺を受けて、日本と韓国の双方から提案があり、韓国併合の話が持ち上がった。会員100万人といわれる韓国最大政党である「一進会」も併合推進派だった。 慎重な日本政府は列国に打診した。欧米先進国の仲間入りを願っていた日本は、国際社会の反応を心配したのだ。アメリカとイギリスは、このまま放っておけばさらに混乱すると考え、韓国併合に賛成した。その他、清国、ロシア、イタリア、フランス、ドイツといった当時の主要国からの反対もまったくなかった。 各国の賛成を得て、また一進会も併合を望み、日本は韓国併合に乗り出した。 日本政府は、当時最も穏やかな併合だったイギリスのスコットランド併合を参考に韓国の併合を進めることにした。 そして明治43年(1910)、日韓併合条約が締結された。 植民地政策といえば宗主国が植民地から搾取するのがお決まりのパターンだった(西欧の植民地支配)が、日韓併合後は日本からの一方的な持ち出しだった。しかも朝鮮から日本に入る人数が日本から出かける人よりも相対的に多かった。 終戦後、日本は莫大な資産を朝鮮半島に置いてきた。日本が朝鮮半島で迷惑をかけたと考えられるものと差し引き計算すると、日本が置いてきた資産のほうが北朝鮮に関しても、今の貨幣価値で8兆7000億円多い。 ところが首相だった小泉は「過去の植民地政策」に謝罪してしまった。謝罪する理由などまったくないにも関わらずである。 当時の朝鮮が明治政府や民間の立場からの福沢諭吉たちの切なる勧告を受け入れて近代化を進めていたら、日本は日清戦争も日露戦争も戦わなくてよかった。併合する必要などまったくなかった。それもこれも清国への属国意識に染まって自立の意思に欠け、清国に、あるいは南下侵略の意図をあらわにするロシアになびき、朝鮮が近代化を遅らせたためだけに起こったことである。そのために日本の負担は大変のものだった。日本にとってはきわめて遺憾なことだった。韓国側からすれば主権が奪われたのだからやはり遺憾なことだったであろう。 昭和59年、韓国大統領(全斗かん)が初めて来日し、昭和天皇と会見した。天皇がどういう発言をするか注目が集まったが、「日韓両国の間には今世紀の初め、まことに遺憾な状態がありました。こういうことは繰り返してはなりません」という趣旨の発言をされた。これ以上ないと思える言い方であった。 ところが、日本の首相は小泉をはじめ、日韓併合について安易に謝罪ばかりを繰り返している。これは明治天皇、明治の元勲、それに日進日露の戦争で戦死した人たちを冒涜することである。 反日史観・自虐史観では、この併合を「侵略」という。馬鹿らしいことである。 韓国併合の理由 韓国併合の理由は何だったか。簡単にいえばひとつはアジアの安定、東洋の平和であった。もうひとつは日本の安全、自衛であった。このことは韓国併合の御詔勅に書かれている。御詔勅というのは美辞麗句を連ねた無意味な文書のように考える者もいるが、そうではない。御詔勅というのは、実にその当時の日本の置かれた立場、日本の主張を的確に簡潔に表現している。 韓国併合の結果、アジアは安定した。言い換えれば、それまでの禍乱(からん)というものはすべて朝鮮に原因があったと言ってもいい。日清戦争、日露戦争、これすべて朝鮮が主たる原因だった。日本は三たびこの朝鮮のために国運を賭した戦争というものを戦いたくなかったから、ついに空名にしか過ぎない韓国の独立を取り消して併合したのだ。 |
参考文献 | 歴史年表 |