支那の歴史(中華民国建国[1912]〜国共合作[1924]まで)

1911年(明治44)、いわゆる辛亥革命が起こった。

  辛亥革命(1911年)

このとき、清朝の宣統帝が退位し、ヌルハチの建国から300年弱で清が滅びると、替って中華民国が新しい支那の国として成立した。年表風にいえばこうなるが、内実はそれほど単純でない。

辛亥革命の翌年、1912年1月1日、南京で中華民国の建国を宣言し、孫文は臨時大総統に就任した。
清朝は、北洋軍閥の長・袁世凱の出馬を仰ぎ、事態の収拾を図ろうとした。ところが、袁世凱が革命政府と気脈を通じていたため、1912年2月、清朝は倒れてしまった
孫文は大総統を去り、袁世凱が大総統となった。袁世凱は皇帝の退位と共和制への移行を認める代わりに大総統への地位を求め、孫文が承諾していたのだ。
ところが大総統に就任した袁世凱は一転、孫文と対立、革命派を弾圧して独裁体制をとるようになる。こうして中華民国の実権は袁世凱に握られてしまい、革命は名ばかりとなってしまった。

孫文は支那南部で兵を挙げた(「第二革命」という)が敗れ、日本へ亡命する。
袁世凱は帝政を復活させて自ら皇帝になろうとした。革命によって清朝を倒して皇帝を廃したのに、袁世凱は今度は自分が皇帝になろうとしたわけだ。しかし袁世凱は支那南部の反乱によって帝政をあきらめ、1916年に急死する。
その後継をめぐって政府は分裂。各地方の軍閥が入り乱れ、支離滅裂の状態になる。それぞれが「自分こそが正当な支那政府」と言い張り、支那大陸は果てしなき内戦の時代となる。

袁世凱が死んだ翌年の1917年、孫文は広東に入って大元帥になり、広東政府(第一次)が成立する。しかし、外交機関は相変わらず北京にあり、北京政府広東政府が支那に存在することになる。さらに両政府内には軍閥・派閥の戦争があり、どこが支那政府かわからない状態だった。支那は軍閥・匪賊が跋扈する複数政府状態が延々と続く。そのため、列強が植民地化した「租界」の中だけが「桃源郷」となった。

辛亥革命から支那事変に至るまでの支那軍閥内戦、国民党内戦、国共内戦が休みなく続いた戦乱の時代であった。北洋軍閥を中心とした北京政府の実権をめぐる攻防戦だけでなく、南方においても各省の軍閥間で戦争が繰り広げられていた。全国的に見ても省VS省、村VS村といった戦争は絶えることがなく、たとえば四川省だけでも約500回もの軍閥内戦があった。
中華民国時代に各地にはびこった軍閥は、清帝国時代の総督より実権は強大だった。清の総督はあくまで中央から派遣された地方官であったのに対し、民国の軍閥は私兵を有しながら専制権を確立していた。住民に対しては封建的搾取をほしいままにする”半独立”諸侯だった。軍閥は勢力の維持・拡大のため、他の軍閥と合従連衡し、同時にそれぞれが外国列強と手を結んでいた。袁世凱の権力の「遺産」をめぐる軍閥割拠の内戦では、覇者は走馬灯のように入れ替わり、いずれも三年ともたない混戦ぶりだった。

当時の支那を二分していたのは段祺瑞らの北京の北洋軍閥と、その対抗勢力として南方の西南軍閥だった。孫文は革命拠点を築くため、西南軍閥と提携した。
孫文が目指したのは、西南軍閥の軍事力を利用しての南北統一(北伐)だった。

中華民国の時代とは「一国多政府時代」である。決して「中華民国」なる統一された一つの近代国家が存在していたわけではない。どの政府にも支那全土を支配する力はないのに、自分たちこそ「全支那に支持された正当政府」と主張していた。

辛亥革命で共和制が敷かれたものの、当初各省・各県を支配したのは、各地方の武装勢力だった。それは軍閥であり、革命派であり、あるいは単なる匪賊集団だったが、どれ一つとして支那を再統一したものはなかった。

そんな中、コミンテルンが近づき、孫文は国共合作を行ってしまう。国民党と支那共産党が手を結ぶこととなり、共産党員が国民党内に入ってくることになってしまったのだ。

  国共合作(1924年)


辛亥革命から第一次国共合作までの状況

1904年 日露戦争
1905年 衰退した清は立憲君主制を導入し、近代改革に着手したものの、すでに手遅れだった。
1906年 溥儀誕生。
1908年 光緒帝、西太后、相次いで死去。溥儀が宣統帝として即位。
1911年 辛亥革命勃発
1912年
1月1日 孫文を臨時大総統とする中華民国臨時政府が南京に成立。
新政府樹立後の攻防戦で、革命軍は強力な袁世凱軍(北洋軍閥軍)に敗退を重ねる。
2月 「南北妥協(南京政府と袁世凱の建てた北京政府の合流)」が成立。
孫文は清朝皇帝を退位させることを条件に袁世凱に大総統の地位を譲り、日本に亡命。
清朝皇帝(宣統帝溥儀)の退位で清朝は消滅。清朝滅亡するも、共和国政府との間で「清室優待条件」の取り決め
辛亥革命後の権力闘争は凄まじいものだった。政党数は会派を含めて600を超えた。結局、革命後の権力は「南北対立」、つまり袁世凱の共和党宋教仁の国民党との抗争に収斂されていく。
1913年 3月 国会選挙の結果、国民党が半分以上の議席を占めたが、宋教仁は袁世凱側に暗殺され、実権は北京政府に
7月 袁世凱に反対する国民党急進派(南方革命派)が江西省で挙兵する(第二革命)。
しかし、結局は袁世凱の精鋭軍に打ち破られ、反袁指導者は殺されたり亡命する羽目になる。
1915年 勝利を収めた袁世凱は国民党を解散させ、大総統の権限を強化し、共和制を廃止
12月 袁世凱は皇帝に即位。国号を中華帝国に改める。
袁世凱の帝制復活・帝位就任に反対し、反袁世凱派が雲南で挙兵する(第三革命)。(第二、第三革命は、袁世凱に対する南方革命派や反袁派による革命戦争であり、また各省に君臨する軍閥の権力争奪戦争でもあった。中華民国内戦時代のプロローグと呼ぶべきものであった)
1916年 貴州、広西、広東、浙江、陝西、四川、湖南などの各省が相次いで独立を宣言する。
袁世凱は大勢に敵せず、南方との妥協を策して帝政を取り消す
袁の実権を承継したのは段祺瑞だんきずい)。段祺瑞の派閥は安徽派軍閥と呼ばれ、日本の支持を受ける親日派だった。
6月 袁世凱病死
1917年 8月 孫文、大元帥に就任して広東政府を樹立する。(その後、北京の反段祺瑞派の国会議員らも南下し、これに合流する。しかし、外国は相変わらず北京政府と国交していた
(北京政府も全土を統治できたわけではなく、辛亥革命以来、軍閥・匪賊が跋扈する複数政府状態が乱立し、内戦状態だった。この状態は1949年支那共産党の中華人民共和国立まで続く)。
張勲の復辟(ふくへき)(王政復古・宣統帝復位)クーデター、段祺瑞に敗れ失敗。黎元洪、大総統を辞任。
1918年 孫文、広西軍に排斥されて上海に逃げる
このころから軍閥の抗争が激しさを増す。
1919年 段祺瑞は欧州大戦後、パリ平和条約における山東省のドイツ権益の日本移譲を承認。これを不満とする国民・学生が北京で反日デモを行う(五・四運動)。全国的な反日運動が巻き起こる。
1920年 7月 ジョンストンが溥儀の帝師(家庭教師)として赴任。13歳の皇帝と初めて対面。
安徽派はライバルの直隷派(清時代の直隷省。後の河北省)軍閥の挑戦を受けていたが、国務総理に就任した段祺瑞は直隷派を攻撃した(安直戦争、安徽省・段祺瑞と直隷省・曹こん、呉佩孚の争い)。
安徽派(段祺瑞)は英米の支援を受ける直隷派軍閥に惨敗し下野。政権は直隷派に移る。安直両派の対立の背後にはそれぞれを支援する日本とイギリスの勢力争いもあった。
孫文、広州で第二次広東政府樹立する(翌年5月、非常大総統に就任)。
1921年 コミンテルン、上海で支那共産党結成
孫文、北伐の軍を挙げようとするが、連省自治派に反旗を翻され、再び上海へ逃亡
1922年 4月 (当時、広東には孫文による反北洋軍閥の政権が誕生していた。これに対して段祺瑞は武力統一(南伐)を唱え、直隷派は和平統一を求めた。しかし、直隷派もいざ政権をとると、やはり南伐の主張に転じる。ここへきて新たな敵が出現した。満州の張作霖の奉天軍閥である。張は当初、安徽派の段と結んでいたものの、安直戦争では直隷派に左袒し、戦勝後は直隷派の曹こんとともに北京を支配していた。この張の寝返りにより、事態は奉直対峙の局面を迎えた。)
第一次奉直戦争。満州・張作霖の奉天軍閥と直隷派の戦争。直隷派勝利。徐世昌が逃亡し、黎元洪が再度大総統に。
敗れた張作霖は満州の奉天に敗退し、東三省(遼寧、吉林、黒竜江省)の独立を宣言する。
12月 孫文、共産党と話し合い、共産党員が国民党に入党するという形で合意に達する。
孫文コミンテルンのヨッフェと会い、国共合作を決める。
1923年 1月 第三次広東政府樹立、孫文、大元帥に返り咲く。
皇帝が紫禁城脱出を画策するも未遂に終わる。
宮廷の財産検査に絡み、建福宮が不審火で炎上。
皇帝が宮廷から宦官を追放。
曹こんが黎元洪を追放、大総統に就任。
1924年 9月 第二次奉直戦争勃発。
奉天軍と直隷派との戦闘中、直隷派の馮玉祥ふうぎょくしょう)が北京でクーデターを起こし北京を占領。
奉天派が勝利し、張作霖・馮玉祥に推された段祺瑞が執政に就任。呉佩孚(ごはいふ)は下野(しかし後に張作霖と共に北京政府の実権を握る)。
11月 反乱軍が紫禁城を占拠、皇帝は日本公使館に。
広州で国民党第一次全国代表大会を開催し、「国共合作」の方針を定めた。
  支那の歴史(国共合作[1924]〜満洲事変[1931]まで)

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参考文献 歴史年表