支那の歴史(国共合作[1924]〜満洲事変[1931]まで)

現在作成中

  国共合作(1924年)


国共合作(第一次)から満洲事変までの状況

  支那の歴史(中華民国建国[1912]〜国共合作[1924]まで)
広州で国民党第一次全国代表大会を開催し、「国共合作」の方針を定めた。
1925年 支那共産党、国民党内工作決議案を全党員に指令。国民党内に共産主義分子が深く浸透することになる。
3月 孫文死去。国民党内で激しい権力闘争が始まる。北洋軍閥間の内戦以上の凄惨さであった。
孫文亡き後の有力者は広東政府を軍政府から国民政府に改めたが、党内世論は反共に傾き始める。
黄埔軍官学校長の蒋介石が台頭。軍の実権を握る。
関税特別会議
1926年 3月 中山艦事件(砲艦「中山艦」が黄埔へ回航しようとしたのを、蒋介石は自分を拉致するための共産党の陰謀と見なし、党・軍内の共産分子を逮捕した。共産党と提携を深めていた汪兆銘、国外に脱出)で蒋介石、権力を掌握
7月 南方で国民党の孫文の後継者の蒋介石が率いる国民革命軍が「北京政府打倒・軍閥討滅」を掲げて北伐を開始。
張作霖、北京占領。馮玉祥失脚。
張作霖と呉佩孚は南伐を開始。国民党は西北軍閥、山西軍閥、広西軍閥と合流して、南北戦争を激化させる。その間も国民党内で内戦が繰り返される。
1927年 2月 共産党国民党左派とともに武漢政府を作る。
4月 4.12上海クーデター(共産党員、労働者などの大量虐殺)
蒋介石の国民党が南京政府樹立。
6月 武漢政府から共産党員が追放される。国共分裂(第一次国共合作終了)。
8月 南昌で武装蜂起(共産党)
ここから盧溝橋事件まで「第一次国共内戦」
この内戦から、軍閥の争いから唯物史観的な階級闘争へ質的に変化した。民衆も殺すか殺されるかの闘争に巻き込まれる。農民の放棄と暴動に対する討伐・虐殺は凄惨を極めた。
12月 支那共産党、広州で武装蜂起、広州コミューン樹立 (12/13 鎮圧)
1928年 満洲皇室の陵墓が破壊される。
北伐軍の北京入場。
張作霖爆殺事件
満州易幟
1930年 中原大戦。民国最大規模の内戦。蒋介石が北伐を成功させた後の独裁政権を目指そうとし、それに邪魔な非直系軍をつぶそうとしたもの。汪兆銘、北平(北京)で、反蒋介石の新たな国民政府を組織。
国民党内戦7年間の犠牲者は3000万人と言われている。満洲事変勃発の一年前のこと。
中華ソビエト共和国臨時中央政府樹立。

蒋介石の南京政府は、西安事件まで、旧軍閥との戦いよりも共産党との内戦で多大な犠牲を払う。当時の南京政府の支出は8割以上が軍事費。
共産党も国民党同様、苛烈な内部抗争を行ないながら国共内戦を戦っていた。血の粛清。
12月 33年10月まで。蒋介石、五回に渡って掃共戦。
19280〜30:西北大飢饉。餓死者は一千万人といわれる。
1931年 満州事変
1932年 満州国建国
1934年 10月 支那共産軍長征開始
1936年 西安事件(第二次国共合作)
1937年 7月 盧溝橋事件

ブラウザの「戻る」ボタンで戻ってください
参考文献 歴史年表