現在作成中 国共合作(1924年) |
支那の歴史(中華民国建国[1912]〜国共合作[1924]まで) | ||||||
広州で国民党第一次全国代表大会を開催し、「国共合作」の方針を定めた。 | ||||||
1925年 | 支那共産党、国民党内工作決議案を全党員に指令。国民党内に共産主義分子が深く浸透することになる。 | |||||
3月 | 孫文死去。国民党内で激しい権力闘争が始まる。北洋軍閥間の内戦以上の凄惨さであった。 孫文亡き後の有力者は広東政府を軍政府から国民政府に改めたが、党内世論は反共に傾き始める。 |
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黄埔軍官学校長の蒋介石が台頭。軍の実権を握る。 | ||||||
関税特別会議 | ||||||
1926年 | 3月 | 中山艦事件(砲艦「中山艦」が黄埔へ回航しようとしたのを、蒋介石は自分を拉致するための共産党の陰謀と見なし、党・軍内の共産分子を逮捕した。共産党と提携を深めていた汪兆銘、国外に脱出)で蒋介石、権力を掌握。 | ||||
7月 | 南方で国民党の孫文の後継者の蒋介石が率いる国民革命軍が「北京政府打倒・軍閥討滅」を掲げて北伐を開始。 張作霖、北京占領。馮玉祥失脚。 張作霖と呉佩孚は南伐を開始。国民党は西北軍閥、山西軍閥、広西軍閥と合流して、南北戦争を激化させる。その間も国民党内で内戦が繰り返される。 |
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1927年 | 2月 | 共産党、国民党左派とともに武漢政府を作る。 | ||||
4月 | 4.12上海クーデター(共産党員、労働者などの大量虐殺) 蒋介石の国民党が南京政府樹立。 |
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6月 | 武漢政府から共産党員が追放される。国共分裂(第一次国共合作終了)。 | |||||
8月 | 南昌で武装蜂起(共産党) ここから盧溝橋事件まで「第一次国共内戦」 この内戦から、軍閥の争いから唯物史観的な階級闘争へ質的に変化した。民衆も殺すか殺されるかの闘争に巻き込まれる。農民の放棄と暴動に対する討伐・虐殺は凄惨を極めた。 |
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12月 | 支那共産党、広州で武装蜂起、広州コミューン樹立 (12/13 鎮圧) | |||||
1928年 | 満洲皇室の陵墓が破壊される。 北伐軍の北京入場。 |
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張作霖爆殺事件 満州易幟 |
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1930年 | 中原大戦。民国最大規模の内戦。蒋介石が北伐を成功させた後の独裁政権を目指そうとし、それに邪魔な非直系軍をつぶそうとしたもの。汪兆銘、北平(北京)で、反蒋介石の新たな国民政府を組織。 国民党内戦7年間の犠牲者は3000万人と言われている。満洲事変勃発の一年前のこと。 |
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中華ソビエト共和国臨時中央政府樹立。 蒋介石の南京政府は、西安事件まで、旧軍閥との戦いよりも共産党との内戦で多大な犠牲を払う。当時の南京政府の支出は8割以上が軍事費。 共産党も国民党同様、苛烈な内部抗争を行ないながら国共内戦を戦っていた。血の粛清。 |
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12月 | 33年10月まで。蒋介石、五回に渡って掃共戦。 | |||||
19280〜30:西北大飢饉。餓死者は一千万人といわれる。 | ||||||
1931年 | 満州事変 | |||||
1932年 | 満州国建国 | |||||
1934年 | 10月 | 支那共産軍長征開始 | ||||
1936年 | 西安事件(第二次国共合作) | |||||
1937年 | 7月 | 盧溝橋事件 |
参考文献 | 歴史年表 |