辛亥革命の混乱の中での中心人物の一人が孫文である。支那国民党を率いる孫文にコミンテルンの赤い魔の手が近づいた。 コミンテルン コミンテルンは次々と大物工作員を支那に送り込んだ。 1923(大正12)年1月、ソ連からボロジンが、4月にはヨッフェがやってきて孫文と会談を行なった(いわゆる「孫文=ヨッフェ会談」)。ここで孫文は、ソ連と「秘密協定」を結ぶ。支那革命のために、ソ連が、資金と武器そしてリーダー養成に必要な莫大な援助を与えるという密約だった。 孫文はボロジンを顧問にして、そのいうとおりに動いてしまう。これ以降、ボロジンは長い間支那共産党を操り、国民党をも動かすことになる。 1924年1月の国民党第一回大会で「連ソ、容共(共産党を容れる)」路線が正式に採択された。国民党と支那共産党が手を結ぶこととなり、共産党員が国民党内に入ってくることになった。これが「国共合作(第一次)」といわれているものである。孫文は共産党を受け入れる路線(容共主義)を選び、これが日本と支那の関係に祟ることになる。 国共合作を果たした支那国民党は、ソ連の進言を入れて、1924年、広州郊外に黄埔軍官学校という、革命軍建設を目的とした士官学校を設立する。これはコミンテルンの財政支援とボロジンの指導の下に準備され、実質的にはソ連共産党が作った陸軍士官学校である。軍事教育のためにソ連から多数の将兵が呼ばれている。校長は国民党の蒋介石だが、教官役にはソ連の軍人やスパイが多数配属され、政治部主任には支那共産党のリーダー・周恩来が配され、実質上は共産党が握った。この黄埔軍官学校のもとで国民革命軍が結成される。 大正14年(1925)年、孫文は死去してしまう。 国共合作を行った孫文は大正13年(1924)に神戸高等女学校で、有名な大アジア主義の公演を行ったのち、北京に渡って病死する。そのとき、孫文は遺言で墓を南京郊外の紫金山に指定し、そこに葬られた。 孫文死去(1925年) 孫文が死んだ後の国民政府主席に、ボロジンの意向を反映して左派の汪兆銘が選ばれた。汪兆銘は孫文の遺言状に署名した人物で、孫文に最も近いところにいた。 もうひとり、孫文に近いところにいた人物として蒋介石がいた。蒋介石は北伐を主張した。北には清朝の残党ともいえる軍閥が割拠している。これを征伐して、支那を統一したいということだった。蒋介石は軍事委員会主席に推挙され、10万の軍を率い、1926年(大正15)7月から、北京軍閥政権の打倒を目指した北伐を開始する。 北伐(1926年) 汪兆銘はその前にフランスへ出ている。蒋介石と汪兆銘の一生にわたる争いは、このあたりから始まっていた。 国共合作は日本にとって大変危うい可能性を宿した出来事だったが、日本のリーダーたちは誰も、この危険な合作に注目することもなく、その後の日本の運命を決するこの重大な流れは放置され日本は対応を誤る。国際共産主義運動が、支那を介して日本の利権にまで手をかけたのだから、日本は重大さに気づくべきだった。さすがにイギリスやアメリカは少しは気づいた。1923年は大正12年であり、9月に関東大震災が起こったのが痛かった。しかも大正天皇の病気が重くなる一方で、しかも皇太子(のちの昭和天皇)暗殺未遂事件が起こり、内閣は崩壊を繰り返すほど国全体がひっくり返っていたのだ。 「連ソ、容共」「国共合作」は支那にとっても大変な不幸をもたらす流れの始まりだった。孫文の大きな過ちは、ソ連に依存して国民革命を遂行しようとしてしまったところにある。いったん共産党と仲良くすれば(共産党のいう「統一戦線」を組めば)、いずれ共産党が力を持ったところで乗っ取られ粛清されるのはロシア革命を見ても明らかだった。この国共合作が1949年の中華人民共和国成立へとつながっていく。 国共合作(第一次)は1927年の上海クーデターと武漢政府からの共産党員の追放で終了する。 上海クーデター |
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