パリ講和会議において、今後は、列強間で強調して国際政治を担うという理念の下、国際連盟が設立されることとなった。日本はその連盟規約に「人種差別撤廃条項」を加えてほしいと提案した。 1919(大正8)年パリ講和会議において、日本の代表である牧野伸顕・珍田捨己の両全権は、世論に気を配りながら、極めて慎重に、アメリカ代表のハウス大佐の賛同を求めた。ところが、ハウス大佐の斡旋にもかかわらず、まずオーストラリア首相のヒューズが真っ向からこれに異議を唱え、イギリス全権はこぞって反対に回った。そこで、珍田全権は「人種あるいは国籍の如何により法律上あるいは事実上なんら差別を設けざること」という、各国民均等主義の決議案を作成、これをさらに文章を和らげて、牧野代表が動議として提出した。このときの牧野代表の演説は、真摯にして礼儀正しく、穏当な開陳であったと記録されている。日本提案は各国委員の賛成を得て、19人の委員のうち11人が賛成した。2人は欠席して、反対投票はなかった。しかるにイギリス代表のロバート・セシルは「激烈なる論争の目的物たる問題」であり、「イギリス国内に極めて由々しき問題を起こすもの」との理由で、日本提案を強く拒否した。日本は規約前文の中に「各国民の平等及びその所属、各人に対する公正待遇の主義を是認し・・・」といったような一文を挿入するだけでも満足であるという修正案を出した。この最終会議のおける日本側の譲歩にもかかわらず、セシルは頑強に反対し続け、ついに議長のアメリカ大統領・ウィルソンは「そういった大事なことは全会一致じゃなきゃ決められない」と難癖をつけ、可決したはずの提案を否決してしまった。牧野代表は「日本政府および人民は、永久不断の不満を解決せんことを目的とし、深甚なる国民的信念にもとづく公平なる主張が採択されなかったことを、はなはだ遺憾とするものである。・・・余はこの問題の将来の結果如何について多大な危惧を抱くものである」という警告を発した。 日本の提案の成功を心待ちにしていた、世界中の多くの植民地民族は、否決と聞いて、改めて白人の横暴を非難し、日本に同情し、解放の時を目指して決意を新たにした。 この提案は当時画期的なものであったが、アジアに植民地を持つ欧米列強には非常に危険な思想だったのだ。特にアメリカはこれを白人を中心とした世界秩序を混乱させるための日本の陰謀と考えたのだ。この件がアメリカの日本敵視をさらに強めることになり、アメリカは何とか日英同盟を廃止させようという方向に向かう。 日米戦を予想していたアメリカは、その戦力を日本より優位にしておく必要から、ワシントンでの軍縮会議を提案してきた。そこでアメリカは日英同盟の廃止に成功する。 ワシントン会議(1921〜22) 人種差別 |
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