人種差別

今は、アジア人も欧米人もアフリカの人々もみな平等だという考え方が普通になりつつある。どの人種が優れていて、どの人種が劣っているという差別的な見方をする白人は相変わらずいるが、かなり小数になった。しかし、大東亜戦争後までは、欧米では白色人種は優秀で、有色人種は家畜同然で劣悪という人種差別が一般的な考えだった。その価値観に風穴をあけたのが、日英同盟日露戦争での日本の勝利だった。ところが、白人国家のロシアを破った有色人国家日本の台頭に白人は怯え始め、これが大東亜戦争の一大原因となる。

白色人種は三世紀にわたって、その権力と技術の体得によって、有色人種に向かい、有色人種は白色人種に比して、生来劣等であるという観念をたたきこんできた。有色人種は自らも、そのあやまった観念を信じるようになった。ところが、日露戦争における日本の勝利は、白人の優越感に対する有色人種の最初の挑戦であり、不当なる人種的偏見のあやまりを実証したいままで絶えざる白人の圧政と搾取に苦しみもがいてきた全世界の有色人種は、日本の勝利をわがことのごとく喜び、かつこれによって、非常なる自信を得た。有色人種は白色人種に比べて、生来劣等であるという観念は、見事に打ち破られたのである。アジア・アラブに起こった民族独立運動が、ほとんどこの1904〜05年の日露戦争における日本の勝利であることは、歴史の証明するところである。
だが、白人優越の烙印はなお残存した。習慣や態度は容易に変わらなかった。日本は人口問題に悩まされ、海外移住地を太平洋岸に求めた。アメリカもオーストラリアもこれを拒んだ。ヨーロッパには「黄禍論」がもちあがった。有色人種の地位は、白人種の下位に甘んじなければならなかった。第一次世界大戦が起き、連合国が日本やインドなどの有色人種の協力によって、かろうじて勝利を得ることができたとき、日本は人種関係を平等の立場で終局的に解決する絶好の機会が到来したと思えた。すなわち世界大戦の結果として、軍事・政治・経済にわたる初めての国際団体(国際連盟)が組織されるにあたって日本は「人種ば平等である」という一項を、連盟規約の中に加えてほしいと要求したのである。

  人種差別撤廃提案

このように日本の懸命な努力にもかかわらず、国際連盟においても、ついに白人の優越感を駆逐することはできなかった。この事実に加えて、太平洋周辺の白人諸国は、経済的・人種的な理由に基づいて、アジア諸民族を排斥する運動を起こした。その初期においては、たんに地方的性質をもったものであったが、漸次これが全国的運動の形態を示すようになり、ついには、国家による立法・国家による法律敢行の制度となった。
かくて人種的偏見の感情、有色人種排斥運動は、第一次大戦後その力を減ずることなしに存続し、これを支持する議論の重点も、次第に経済論から文化的・生物学的議論に移っていった。この事実は1917年から1924年に至るアメリカの法律をひも解いてみれば一目瞭然である。

  アメリカの排日

日本は、アメリカからもカナダからもオーストラリアからもニュージーランドからも締め出された。日本は人種的侮蔑感と過剰人口に悩まされた。過剰な人口を抱え、貧しい資源しかなく、経済的に困窮した日本がそのはけ口を大陸に求めたとしても、それは責められるべき行為ではない。

まさに大東亜戦争の遠因をなしたこのような白人帝国主義による人種的偏見の歴史を有色人種は忘れてはならないだろう。

今、トルーマンやマッカーサーのことを考える時、当時の人種差別の状況を知っておかないと彼らの考えは理解できないだろう。スプルーアンス太平洋艦隊司令長官の自叙伝には、アメリカ海軍はアジア系の人間や黒人などの非白人は厨房以外には使わないと書かれている。というのは、他の部署で白人以外を使って出世されると部下ができる。有色人種に部下として使われるのは、白人には我慢のならないことだ。こういう状況が太平洋の戦争が終わるまで続いた。明らかな人種差別である(日本軍にはコリア人の将校が少なからずいたが、日本人兵士は彼らを上官として仰ぎ、命令に従った)。

人種差別がなくなったのは、大東亜戦争のおかげで、植民地だった地域の有色民族たちが独立心に目覚めたからだ。今でこそ黒人大統領も生まれるようになったが、アメリカで黒人が平等に見られるようになったのはベトナム戦争のころからである。


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参考文献 歴史年表