国際連盟脱退(1933年)

日本はリットン報告書をめぐって国際連盟を脱退した。

  リットン報告書

今から見れば、脱退する必要があったかどうかは考える余地がある。第二次世界大戦後、国際連合が発足した初期のころ、ソ連は提案を拒否されたり、非難決議を受けたりした。それでも腹を立てても脱退せず、平気で残った。
日本は歴史的経緯を踏まえて世界にうまく訴える方法があったのではないか、と渡部昇一氏は見ている。
ヌルハチの建国から始まって、その息子が清と称し、さらにその息子が北京を占領して、支那全土を支配することになった。したがって、清朝は満州族の王朝である。それが革命という名の独立運動を起こされて被征服民族である支那人に追い出された。廃帝となった溥儀は先祖の土地へ戻って自分の国を持ちたいと切実なる希望を有した。これに賛成する満州人は大勢いた。それを軍事的に支援したのが日本軍であった。だから、不義を迎えての満洲建国は何らレジテマシーに欠けるところはない。この筋道がはっきりわかるような文章を作り、世界中に配るべきだったと渡部昇一氏は見ている。

外国人の多くはまだ満洲王朝の清を支那人の王朝だと思っている。しかし、言葉にしても満州族は満州語を持っている。また、清朝は満州に他の民族が入るのを嫌がって封禁政策をとったし、東三省(満洲)の将軍には満州人を任命し、支那人を使わなかった。

  満州
  満州国


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参考文献 歴史年表