満洲事変、各省の独立、満州国建国、溥儀の皇帝就任に対して、支那は国際連盟に訴え、1932年、国際連盟はイギリスのリットン伯爵を団長とする調査団(リットン調査団)を派遣した。メンバーはいずれも支那に関して素人だったが、「日支紛争に関する国際連盟調査委員会の報告(リットン報告書)」が作成された。 この報告書は、リットンら一行が現地を視察し、日本と支那の言い分と、膨大なる証拠や証言を基礎にしてつくりあげたものである。 リットン報告書の概要(こちらに概要を明記) この報告書に基づき、国際連盟は、満州国の主権は支那に属するとされ、日本軍の撤収が勧告された。複数の政府が乱立し、分裂内戦が続く支那に満州国の主権が属するなどというのは馬鹿げた話であるが、報告書は当時の日本の置かれた状況(共産主義の悪、排日宣伝など)については的確に把握しており、「日本の侵略とするような簡単な話ではない」と結論付けていた。報告書は日清戦争までさかのぼって日本と支那の立場と両国の歴史を公正に分析している。調査団は、日本を攻撃した国民党の激しい反日政策、教科書、人民外交協会など、社会の各層で鼓舞された抗日反日運動が、支那人民の感情の自然な盛り上がりというより、国民党政府の政策だった面を指摘した。 重要なことは日露戦争前に満州がすでにロシア領になっていたことである。それに対して清国は何もしなかった。日露戦争で勝った日本が満州を清国に返してあげた。その代償として南満洲鉄道と遼東半島の租借権を得た。 ポーツマス条約(1905年) したがって、満州に対する日本の発言権が大きくて当然である。 日露戦争時、清国とロシアは密約を交わしていて、日本にとって清国は敵国だった。 露清密約(1896年) 露清密約が明らかになっていたら、戦勝国の日本は満州を清国に返さなくてよかった。 リットン報告書では満州を支那の一地域として自治州のように扱うという趣旨のことを主張した。満州国を独立国とする日本は当然これを受け入れなかった。満州は支那人の国家の領土ではなく、満州族の土地である。満洲王朝である清の皇帝がそこに戻ってトップに立ち、後に皇帝として即位するのは正統性があることである。 リットン委員会のメンバーはこんなことすら知らなかった。清朝は支那人の王朝ではなく満州人の征服王朝であり、しかもその清朝はすでに潰れているから、支那に満州の権利はなかったという視点すらなかった。リットン報告書が出る前にレジナルド・ジョンストンの「紫禁城の黄昏」を読んでいれば、満州は支那のものではないと書いたはずである。 紫禁城の黄昏 結局、日本は「リットン報告書」をめぐって国際連盟を脱退する。 国際連盟脱退(1933年) パール博士はこの報告書を重視して、判決分の中にその全文を掲載した。なぜならば、満州事変がなぜ起きたか、その責任者は誰か、その背景をなしたものは何か、非違はいずれにあったか、そうした問題をリットン卿を長とする公正なる第三者の目によってとらえ、究明された国際的な文献であるからだ。 満州事変について、リットン調査団は以下のように報告している。 「問題は極度に複雑だから、いっさいの事実とその歴史的背景について十分な知識をもったものだけがこの問題に関して決定的な意見を表明する資格があるというべきだ。この紛争は、一国が国際連盟規約の提供する調停の機会をあらかじめ十分に利用し尽くさずに、他の一国に宣戦を布告したといった性質の事件ではない。また一刻の国境が隣接国の武装軍隊によって侵略されたといったような簡単な事件でもない。なぜなら満洲においては、世界の他の地域に類例を見ないような多くの特殊事情があるからだ」 日本の侵略と簡単に断定できないと、リットン報告書は言っているのである。 |
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