満洲人、支那人、蒙古人からなる委員会は1932(昭和7)年2月、満州の独立を宣言した。そして、3月1日、満州国政府は建国を宣言し、9日には清朝最後の皇帝だった溥儀が執政に就任した。 これらは唐突なことではなく、満州事変(柳条湖事件)以降、満州各地で独立運動が起こっていたのだ。 1931(昭和6)年に満州事変が起きて張学良が追い払われると、事変勃発直後の9月24日に遼寧省、26日に吉林省、27日に東省特別区、29日に熱河省、東辺道に、10月1日に?(さんずいに兆)南にでそれぞれ独立が宣言された。要するに満州事変以前から独立への気運と素地があったのだ(満州事変の二年前には満州人と蒙古人自身が満蒙帝国をつくろう、そしてロシアからも漢民族からも自由な大帝国をつくろう、そしてその皇帝に退位した宣統帝溥儀を持ってこようという計画をつくって、溥儀の許可も得て溥儀から資金の協力まで得ている)。 独立運動が日本軍がまだ進出していない地域に発生したのは独立が満洲人の自発的運動だったことを示している。満州に独立国家を作ろうというのは、張学良軍閥に反発する満洲文治派の総意であり、それを日本が支援したのだ。満洲独立の気風は満州に満ちており、それをまとめるために清朝の皇帝だった溥儀が担がれ、1934(昭和9)年に満州国の皇帝となるのは自然の流れだった。満州国建国といってもそれは元来の清朝発祥の地に清朝が復活しただけであって、誰も文句のつけようのないことである。清朝滅亡以後、満州国の独立は満洲人の念願だったのだ。 当時は、正当な満州皇帝が自分の郷里に入っても、いろいろな軍閥が割拠していたために、溥儀は日本の軍隊の助けを必要とした。しかし、ひとたび満州国政府ができると、首相以下すべての大臣は満州人及び清朝の忠義な家来であり、日本人はその下で実務を取るという例が多かった。 こうしてみると、満州建国は侵略というようなものではない。満州族の正当な皇帝が故郷に戻っただけの話である 満州事変から満州国建国は、当時の国際常識からいえば、非常に穏健な方法である。満州事変の16年前の1915年にアメリカがやったハイチ侵攻と比べてみればそのことがよくわかる。 ハイチ侵攻(1915年) そもそも満州は、清朝を築いた満州族(女真族)の故郷であり、歴史的に支那の領土ではない(清朝の時代は支那が満州の領土であった)。 1912年の辛亥革命で皇位を追われた清朝最後の皇帝・溥儀は、父祖の地に戻りたいと願っていた。そして、いつしか自分の民族である満州族の皇帝として、満州を治めたいと思うようになっていた。 宣統帝溥儀 日本国内では多少の反対意見もあったが9月に日本は満州国を正式に承認した。 国際社会の反応もまことに柔軟なものだった。イギリスは、アメリカとの共同通告は不要としたし、支那の国民政府ですら満州国を黙認する姿勢を示した。満州国は世界で18ヶ国が承認した。そこにはローマ教皇庁、イタリア、スペイン、ドイツ、北欧、東欧諸国が含まれる。大東亜戦争が始まると、タイ、ビルマ、フィリピン、自由インド仮政府も承認した。あくまでも激しく非難したのは、嫉妬心に燃えるアメリカだった。 満州国は独立後、日本の支援もあって短期間に大きく発展することになる。 こうした満州における動きに対して支那(中華民国)は国際連盟に訴え、リットン調査団が派遣された。 リットン報告書 満州国については以下の点が重要である。
満州国の建国自体は悪いことではなかった。ただ、問題を挙げるとすれば、軍の主導で強引に行なわれたということ。その後、日本は国際連盟を脱退し、国際世論は日本に対する不信感を強める。 国際連盟脱退(1933年) 満州国建国は、日本政府の主導ではなかったけれども、リットン報告書も、これを侵略と断定しなかったことは重要である。 反日、自虐史観では満州国は「台湾、朝鮮と並び称せられる大日本帝国の三大植民地」「偽満州国(これは支那がよく言う)」「日本の傀儡国家」などとされているが、こうしたイメージは満州史について歴史を歪曲したものであり、列強時代、ことに近現代の国民国家形成に関する歴史認識の不足によって形成されたものである。 |
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