通州事件(1937年)

塘沽停戦協定満州国と接する河北省内に非戦地区が設けられ、そこで独立を望む動きが生まれ、親日的な殷汝耕の冀東政権が誕生した。

  冀東・冀察政権成立(1935年)

通州にはその政府があり、冀東政府は1万人以上の保安隊を有していた。

昭和12(1937)年7月29日、主力が出払って100人くらいしか残っていない通州の日本守備隊と、日本人居留民(韓国合後の朝鮮人も含む)を、冀東政府の保安隊千数百人が襲撃し、支那人による凄惨な日本人虐殺が繰り広げられた。在留日本人380名中、惨殺された者は260名にも及び、残忍極まりない殺され方をした。

通州事件の目撃者による口述書の一部を引用すると、

「守備隊の東門を出ると、数間ごとに居留民男女の死体が横たわっていた。某飲食店では、一家ことごとく首と両手を切断され、婦人は14、5歳以上は全部強姦されていた。旭軒という飲食店に入ると、7、8名の女が全部裸体にされ、強姦射刺殺され、陰部にほうきを押しこんである者、口中に砂を入れてある者、腹部を縦に断ち割ってある者など見るに堪えなかった。東門の近くの池では、首を電線で縛り、両手を合わせて、それに八番線を通し、一家6名数珠つなぎにして引き回した形跡歴然たる死体が浮かんでおり、池の水は真っ赤になっていた。夜半まで生存者の収容に当たり、『日本人はいないか』と叫んで各戸ごとに調査すると、鼻に牛のごとく針金を通された子供、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦などが、そこそこのちり箱の中やら塀の陰から出てきた」

通州保安隊の二人の隊長(張慶餘と張硯田)は宋哲元の第29軍とかねてから接触を持っていた。そして昭和11年ごろには通州の保安隊の内部に支那共産党の支部ができていた。
通州特務機関長細木中佐は張慶餘と張硯田と、第29軍の通州攻撃を防ぐための軍事会議を開いた。そこで張慶餘と張硯田は、分散していた配下の保安隊を通州に終結させるよう提案した。両隊長を信頼していた細木中佐は賛成し、散在していた日本居留民を保護するために通州に集合させた
そして1937年7月29日、通州の保安隊は突然通州城門を閉鎖し、一切の交通、通信を遮断し、日本人の大虐殺を実行した。

実は、事件の二日前、国民政府の御用放送は次のようなデマを放送していた。
  • 盧溝橋で日本軍は支那軍(第29軍)に惨敗した。
  • 支那軍は華北に兵を進め、日本軍の壊滅は近い。
  • 蒋介石は第29軍によって冀東(通州)を襲い、殷汝耕を血祭りにする。
このデマ放送を聞いた通州の保安隊は、当然、自分達は皆殺しにされると考えたであろうことは容易に想像できる。支那の軍隊というのは略奪、強姦、虐殺を当たり前とする集団だからである。

当たり前のことだが、この事件のあまりの残虐さに日本の世論は沸騰した。明治以来、支那人による日本人虐殺は無数に行なわれてきたが、日本は報復するようなことはしなかった。
これは当時、極めて深刻な影響を及ぼした事件だった。
日本人の支那への感情はこの恐るべき虐殺で取り返しの付かないほど悪化してしまったのである。

日本の教科書、年表

この世紀の大虐殺・超重大事件を載せてない日本の歴史書や年表がやたらと多い。教科書なんかまったく無視している。日本の歴史学者は口をつぐみ続け、教科書も新聞も雑誌もまったく書こうとしなかった(近年はインターネットの普及とともにもう隠せなくなってしまっている)。支那に気兼ねして、また、この事件を伝えると「支那は善」「日本は悪」という洗脳に説得力がなくなるから隠蔽を行なっていたことは明白である。

戦後の日本では虐殺の理由として復讐説が長く定説のようになっていた。事件の二日前には第29軍と日本軍の戦闘があり、日本の飛行部隊が誤って落とした爆弾で通州の保安隊の何人かが死んだ。それに対する復讐がこの「通州大虐殺」だというのだ。
しかしこの誤爆の件は、日本側がすぐに保安隊本部を訪ねてお詫びし、遺族にも礼を尽くして解決していた。その後、支那側の資料が出てきて、計画的な行動だったことが明らかになっている。

通州事件を詳しく説明した「大東亜戦争への道」の「惨!通州事件」こちらから読めます。日本人なら熟読して熟知しておく必要があります。

ブラウザの「戻る」ボタンで戻ってください
参考文献 歴史年表