日露戦争後に日本に来て陸軍士官学校で学ぶ。卒業後、士官候補生として新潟県高田の野砲兵第13連隊に配属された。日本留学中に孫文の支那同盟会に加入し、1911年の辛亥革命に際しては帰国して革命に参加。1923年、孫文の命令でソ連の軍事事情を視察後、1924年に黄埔軍官学校初代校長に就任した。1925年に孫文が死去すると国民党中央執行委員となり、国民革命軍総司令に選ばれた。1926年3月、中山艦事件をきっかけに権力を掌握する。この事件は、砲艦「中山」が黄埔へ回航しようとしたのをしたのを、蒋介石は自分を拉致するための共産党の陰謀とみなし、党・軍内の共産分子を逮捕したというもの。実際事件の真相は不明で、国共関係史上最大の謎とされるが、いずれにせよこれをきっかけに共産党の弾圧が強化され、共産党との提携を深めていた汪兆銘も国外へ脱出した。
1926年7月、国民党は北伐を宣言。蒋介石はその総司令として国民革命軍を率いて北京政府打倒の途につき、予想以上の急進展を見せた。1927年4月、上海クーデターを起こして反共攻勢に転じた。1928年、南京に国民政府を樹立して主席となって以来、国民党内での汪兆銘との対立や閻錫山、馮玉祥らの反蒋軍閥による数次の抵抗に出あいながらも、国民党の実権をほぼ一貫して掌握した。1936年の西安事件で捕らえられ、抗日民族統一戦線の形成に同意したが、37年の支那事変で日本に敗北し続けると政府を重慶に移した。その後、支那事変中もしばしば反共政策を断行した。1945年、抗日戦争勝利後は国共内戦が勃発。内戦に敗れて台湾へ逃れた。1975年台北で死亡。 |