黄河決壊事件

蒋介石は日本軍が南下して武漢に進撃してくることを恐れ、武力では阻止できない代わりに水攻め作戦を指令した。
1937(昭和13)年6月7日、河南省の中牟(ちゅうぼう)付近にある黄河の堤防が爆破され、さらに9日には鄭州(ていしゅう)北部の堤防が砲撃された。
11日、大雨により爆破地点から水が流れ出し、下流からも逆流し、幅十数キロの奔流となって河南、安徽、江蘇三省の平原を覆った。
これにより20以上の県が被害を受け、11都市と四千の村が水没した。水死者百万人、被害者六百万人といわれ、水没した耕地は一千七百アールに達した。災害の後遺症はその後何年も続いた。黄河の堤防補修が完了するのは、戦後の1947年になってからだった。

国民党は「日本の空爆で黄河が決壊した」との偽情報を報じ、全国各メディアが総動員され、日本軍の暴挙として喧伝され、各国の世論も日本を非難した。しかし、ことの真相はすぐにベテラン外国人記者に見破られ、国民党の自作自演であることは明らかにされた。

この決壊により日本軍は中原から武漢への進撃を一時停止した。進路を変えざるを得なかったが、結局は迂回して中支那派遣軍を編成し、数ヵ月後には武漢攻略に成功した。この水没作戦は住民に害を及ぼしただけだった。
蒋介石の次男・蒋緯国(しょういこく)は、犠牲になった民衆を「すすんで国に命をささげた愛国者」とうそぶいている。

支那の戦史では水攻めはしばしば見られることである。黄河の決壊によって水路が変わり旱魃(かんばつ)が起こり、大飢饉に見舞われている。

参考資料:日中戦争は侵略ではなかった (黄 文雄)


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参考文献 歴史年表