昭和13年(1938)秋、日本軍は漢口、南支両作戦を進め、作戦の必要から揚子江及び珠江を封鎖した結果、第三国の在支那権益をめぐる軋轢は避け難い状況となった。日本と支那が事実上、交戦状態にある以上、米英の在支権益との抵触事例が急増したのはいたしかたないことである。 このような状況が進展中の10月6日、アメリカ国務長官・コーデル・ハルはかなり長文の覚書を日本に突きつけてきた。 それは、日本軍占領地域において差別的な為替管理、専断的な関税改正が行われ、また特殊会社の設立で門戸開放主義が破壊され、アメリカ国民から機会均等主義がはく奪されているとして日本を非難するものだった。アメリカ伝統の門戸開放主義に立つ最初の具体的な対日抗議として注目すべき覚書である。 これに対して有田八郎外相は、11月18日、「支那事変という非常事態においては、門戸開放主義といった観念的原則を文字どおりに遵守することはできない」という旨の反論をした。 これはすなわち九ヶ国条約とワシントン体制そのものを文字どおり公式に否認したに等しい。 19世紀末以来、アメリカ極東政策の基本理念たる門戸開放主義が、従来と書く日米の東洋政策における齟齬を生んできたにもかかわらず、日本は原則的にはその主義を承認してきた。しかし、ここに至って遂に明言をもって門戸開放主義を公式に否認した。まさに画期的な声明だった。 門戸開放宣言(1889年) 第二次門戸開放通牒(1900年) 参考文献:大東亜戦争への道(中村 粲著) |
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