日独防共協定後、枢軸陣営はますます強化されつつあった。ドイツから防共協定の強化が提案され、さらに日独伊の三国同盟草案が提示され、日本はその検討を迫られていた。 日本では、ソ連の他にイギリス・フランスも同盟の対象とするドイツ案を支持する陸軍と、対象をソ連に限るとする陸軍以外の意見が大きく対立していた。 三国同盟の基本性格をめぐって、日本の国家意思は容易に決まらず、ドイツは日本の回答延期に焦慮し、1939年5月22日、日本抜きで独伊同盟(鉄鋼同盟)を締結した。 このような状況下の昭和14年(1939)8月23日、突如独ソ不可侵条約が締結され、日本政府当局を愕然とさせた。 日本政府はこれをドイツの背信と断じて防共協定強化交渉の打ち切りを決定(8月25日)するとともに、ドイツに抗議を申し入れた。8月28日、平沼内閣は「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じ」云々の声明を発して総辞職した。この条約以降ドイツとの関係は冷え切った。 ところが、第二次欧州(世界)大戦勃発後、ドイツは電撃戦でとてつもない強さを見せた。ドイツと同盟関係を結んでおけば将来は安泰だという気運が高まり、やがて日本は日独伊三国同盟を結ぶことになる。 日独伊三国同盟(1940年10月) 独ソ不可侵条約にはポーランドをドイツとソ連で分割するという密約も入っていた。要するにドイツ・ソ連間にある地域を両国で侵略し山分けしようと合意したわけだ。 独ソ不可侵条約が結ばれた時期、日本はノモンハンでソ連と交戦中だった。 ノモンハン事件(1939年) |
参考文献 | 歴史年表 |