ヨーロッパ戦線の概要は以下の通り。これを読むと、ドイツとソ連が凄まじい侵略を行なったことがわかる。しかしイギリスもアメリカもそれ以前に世界中でドイツ・ソ連顔負けの侵略を繰り返していたのだからどっちもどっちである。 第一次世界大戦の敗戦国ドイツは、昭和8年(1933)にナチス党のヒトラーが政権の座につき、ユダヤ人を迫害する一方で、武力による領土回復と拡張を進めた。 ドイツはソ連と1939(昭和14)年8月23日にソ連との間に独ソ不可侵条約を結んだ上で、9月1日に150万にのぼる機甲部隊をポーランドに侵攻させた。 ポーランドと同盟を結んでいたイギリスとフランスは2日後の9月3日にドイツに対し宣戦布告し、ドイツの軍港などへの攻撃を仕掛け、ここにおいて第二次欧州(世界)大戦が始まった。 ヒトラーの命を受けたドイツ軍は、圧倒的な力でポーランドを進撃し、首都ワルシャワを陥落されそうになると、9月17日には今度はソ連がポーランドを東部から侵攻した。ポーランドの同盟国であるイギリスとフランスはドイツと同じくポーランドに侵攻したソ連に対しては、どういうわけだか宣戦布告しない。 侵略をやってもイギリスとフランスが何もしないことに味をしめたソ連は、11月にはフィンランドにも侵略を開始した。一連のソ連の侵略に対してソ連は国際連盟から除名処分となっただけである。 ドイツ軍のポーランド侵攻直後から、ドイツの占領地域に在住するユダヤ人の強制収容が始まった。 ソ連の占領地域でもカティンの森事件を始め、1939年から1941年にかけて180万人ものポーランド市民が殺害されるか国外追放された。 翌年1940年4月にはドイツは中立国だったデンマークとノルウェーに侵攻し、占領した。ソ連に侵略されたフィンランドはカレリア地方をソ連に割譲してソ連と講和した。 続いてソ連はバルト3国(エストニア、ラトビア、リトアニア )に進駐し、親ソ政権を組織して反ソ分子を逮捕・虐殺・シベリア収容所送りにし、バルト3国を併合した。同時にソ連はルーマニアから領土を割譲させた。 ポーランドがドイツとソ連に占領された後は、ドイツとイギリス・フランスの間には大きな戦闘は行なわれず小康状態が続いていたが、1940年5月10日、ドイツ軍はベルギー、オランダ、ルクセンブルグに向け電撃的な攻撃を開始し、相次いで占領した。5月13日には一気にフランス領内にまで攻め込み、フランス東部を瞬く間に制圧。6月14日にはドイツ軍はパリに無血入城し、22日にフランスはドイツ軍に降伏。フランスでは親ドイツのヴィシー政権が樹立される。 7月10日、枢軸国の一員であるイタリアもイギリスとフランスに対し宣戦布告をし、北アフリカやバルカン半島へ侵攻を開始した。 ヨーロッパ大陸から連合国軍を追い出し勢いをつけたドイツは、8月頃よりイギリス本土への攻撃を始めるが、イギリス軍もこれに対抗、ドイツ軍はイギリスへの上陸作戦を断念し、こう着状態となった。 その後、連合国と枢軸国は地中海やアフリカ(自分達の植民地)で戦闘を行なう。 1940年9月27日に日本とドイツとイタリアの間に日独伊三国同盟が結ばれ、日独伊とソ連による4ヶ国同盟の構想も生まれたが、翌1941年6月22日には、ドイツ軍が独ソ不可侵条約を結んでいたソ連に攻め込んで宣戦布告した。 独ソ戦勃発(1941年6月) ソ連軍(赤軍)は負け続け、ドイツ軍は瞬く間にソ連領内を進軍した。連合国側は、ポーランドやフィンランドを侵略したソ連とは距離をおいていたが、独ソ戦の勃発によりドイツの敵国となったソ連を連合国の側に受け入れ、ソ連に対する膨大な物資の援助を開始した。つまり敵の敵となったために味方にしたわけだ。しかし、年末までの間にソ連軍は一方的な敗北を重ね続け、ドイツ軍は首都・モスクワの近郊にまで迫る。 1941年の12月7日(現地時間)に起きた真珠湾攻撃やマレー半島上陸などにより日本とアメリカ・イギリスの間で戦争が勃発した。 大東亜戦争 アジアでの開戦を受けてドイツとイタリアは12月11日にアメリカに宣戦布告。これにより、これまでヨーロッパ戦線において虎視眈々と参戦の機会を窺っていたアメリカが連合軍の一員として正式に参戦することができるようになった。参戦しないという公約で大統領に当選していたフランクリン・ルーズベルトは、日本を戦争に巻き込むことによってヨーロッパの戦争に参戦できるようになったのである。 その後、ドイツ軍はスターリングラード攻防戦でソ連軍に歴史的な敗北を喫し、モスクワの直前まで迫っていたドイツ軍は徐々に後退を始める。また北アフリカ戦線においての形勢も徐々に逆転する。 1942年7月からはドイツ政府によるユダヤ人絶滅計画であるホロコーストの実行が本格化した。 翌1943年になるとドイツ軍は、相次いで敗北し、もう攻勢に出ることはなかった。 イタリアは連合軍に対して完全に劣勢に立たされ、ムッソリーニは逮捕され、新政権は9月8日に連合軍に対して休戦し、直ちにイタリア軍は連合国軍に合流した。枢軸国はイタリアに裏切られた。 1944年の4月には、ソ連軍はクリミアやウクライナ地方のドイツ軍を撃退し、ほぼ完全に開戦時の領土を奪回。更にソ連軍はバルト三国、ポーランド、ルーマニアなどに侵攻。 一方で、連合国軍は、6月6日に、イギリス軍とアメリカ軍を中心にノルマンディー上陸作戦を行い、ドイツ軍はなし崩し的に敗退を続け、まもなくフランス全土がドイツの占領から解放された。親独的中立のヴィシー政権は崩壊し、ドイツ軍の占領に協力した者の多くが死刑になったり国外に逃亡した。 東部戦線でもドイツは敗北を重ね続け、1945年に入ると、ポーランドはソ連軍の支配下に入る。また、連合国軍はオーストリア、ドイツ領内に進む。 絶望的な状況の中、ヒトラーが自殺し、ドイツが無条件降伏し、ヨーロッパでの戦争は終結した。 ドイツ降伏(1945年5月) |
参考文献 | 歴史年表 |