日独防共協定(1936年11月)

昭和10(1935)年7月のコミンテルン第7回大会以降、コミンテルンは日本とドイツを公然と敵視し、いわゆる「反ファッショ人民戦線戦略」によって国際的に敵対行為を活発化させていた。
日本はこのような敵対行為に対し、その破壊活動防止のため、利害を同じくする諸国と提携して対処すべく、ドイツ側の打診を開始した。
ソ連は五ヵ年計画で極東での急速な軍備強化を行い、それは日満両国への重大な脅威であった。このようなソ連とコミンテルンの脅威に関してドイツは日本と同じ立場であることが日独防共協定へとつながった

昭和11(1936)年11月25日、日本はドイツと日独防共協定(正式には「共産インターナショナルに対する日独協定」という)を締結した。
日本外務省は、防共協定締結の勧誘に西欧諸国が応じると読んでいたが、実際には日本の意向に反して反英・反米協定と誤解され、アメリカとイギリスの対日空気が悪化した。
アメリカとイギリス(そして支那[中華民国]も)は共産主義に対する認識が生ぬるく、間違っていたのだ。

日独防共協定は昭和12年(1937)11月にイタリアが加わり、三国防共協定となったが、翌13年に入ってからは満州国ハンガリー(2月)、そしてスペイン(3月)が加盟し、枢軸陣営はますます強化されつつあった。これがやがては日独伊三国同盟へとつながる。

  日独伊三国同盟(1940年9月)

このような状況下の昭和13年(1938)1月、


ちなみに反日・自虐史観においては、この協定はいかにも不当な反共同盟であり、日ソ関係を悪化させた原因であるかのごとく論じられている。

東京裁判でも、この協定は共同謀議の槍玉のひとつに挙げられた。検察側は、日本とドイツが防共協定を結んだことは、「ソ連に対する侵略の陰謀」とだったというのである。とんでもない言いがかりである。
日露戦争が、帝政ロシアの東亜侵略に対する自衛戦であったことは、リットン調査団の報告書に照らすまでもなく、一点の疑う余地もないところである。

  リットン報告書

帝政ロシアの執拗なる侵略野望を防ぐために、だからこそ、イギリスは、進んで日本と「日英同盟」を結び、アメリカもポーツマス条約において、日本の正当性を認め、その線に沿って講和の労をとったのである。

  日英同盟
  ポーツマス条約

ロシアは1917年に革命が成功し、ボルジェヴィキの政府が、帝政に取って代わった。それ以降、世界共産革命を立国のテーゼとし、世界各国に対して、その内部に共産党の組織を植え付け、その組織を培養し、指導して、内部革命を図ってきた。これがため、世界各国は深刻な脅威を感じ、国政に責任を負う指導者たちは、ひとかたならず防共政策に腐心している。現になお、共産党を非合法政党として、法をもって禁じている民主国家は、相当数に上っている。

日独防共協定が、ソ連に対する侵略の陰謀であるとするなら、戦後アメリカを筆頭に西欧諸国が防共のために結束したNATO(北大西洋条約機構)やSEATO(東南アジア条約機構)などの防共軍事同盟は、すべて侵略の陰謀であり、これに参加し、これを企画した政治家や軍人は、すべて共同謀議者ということになる。

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参考文献 歴史年表