ビルマ・ルートとは援蒋ルートのひとつ。支那事変中、支那沿岸が日本軍によって封鎖されるとビルマ・ルートは軍需物資補給路として注目され、支那政府は昭和14年に道路を完成させ、援蒋ルートとして利用された。 しかし、ヨーロッパの戦局が急変し、イギリスが危機に陥った昭和15年6月、日本はビルマ・ルートによる援蒋武器輸送の停止をイギリスに求め、折衝の末、イギリスはこれに同意し、7月17日、ビルマ・ルート三か月停止のための協定が日英間に結ばれた。 イギリスのこの決定に不満なアメリカの国務長官・コーデル・ハルは、ビルマ・ルート閉鎖は世界貿易に対する不当な妨害であり、アメリカは独自の政策を遂行するとの所見を述べた。中立義務違反に等しい援蒋行為さえもが、通商の自由であるとのハルの臆面もなき主張には辟易するが、門戸開放主義の悪用も極まった感がある。 一方、日本に譲歩したイギリスも、日本の北部仏印進駐と日独伊三国同盟を理由として、ビルマ・ルート一時閉鎖の協定を更新することを拒否し、10月18日より公然とビルマ・ルートによる援蒋を再開したのであった。 参考文献:大東亜戦争への道(中村 粲著) |
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