アメリカとイギリスの重慶政府援助と対日経済圧迫は日本の方策を「援蒋ルート」遮断と経済体制確立への向かわせた。両政策とも平和的外交手段によって達成すべく努力されたが、アメリカ、イギリス、オランダの反日策動のため、困難を極めた。 南京陥落後、奥地の重慶で抗日抗戦を継続する蒋介石政権(重慶政府)をアメリカ、イギリス、ソ連が支援し続けたが、それらは仏印やビルマや支那西北方から重慶へ通じる「援蒋ルート」によって行なわれており、これらの援蒋(蒋介石政権を支援する)行為が続けられる限り支那事変は解決しないのは明白だった。 アメリカ、イギリス、ソ連は支那事変解決のための調停を行なうでもなく、重慶政府を助けて支那の抗日戦意を煽り続けているだけだった。このため、日本が支那事変を解決するため援蒋ルート遮断を考えたのは当然だった。 仏印ルート、ビルマ・ルート、西北ルート、南支ルートの4本の「援蒋ルート」のうち最も重要だったのが仏印ルートで、援蒋ルートすべての輸送量のほぼ半分がこのルートを通じて送られた。支那事変勃発以後、日本はフランスに仏印ルートによる援蒋行為禁止を申し入れていたが、フランスは様々な口実で承諾しなかった。 昭和15年(1940)6月にフランスがドイツに降伏すると、仏印当局はようやく仏印ルートによる援蒋物資の輸送を停止し、2ヵ月に及ぶ外交交渉の末、「仏印の領土保全とフランスの主権を尊重、軍隊6000人以下、4箇所の飛行場周辺に限定、支那事変解決までの臨時措置であること」などを明文化した松岡・アンリ協定を締結した。この協定に基づき、9月23日に日本軍は北部仏印進駐を開始した。 これはフランス・ビシー新政府との合法的協定であったにもかかわらず、日本のやることになんでも反対する姿勢を見せていたアメリカは例によってこの協定を認めなかった。国務長官のコーデル・ハルは、日仏協定不承認声明を発した上で、全等級の屑鉄、屑鋼の対日輸出を禁止する方針を発表した。 イギリスやアメリカの他国への進駐: 東京裁判以来、この北部仏印進駐を日本の侵略行為と論ずるのが反日歴史家の定説になっているようだが、イギリスやアメリカですら他国に同様な軍事進駐を行なっている。 仏印進駐の前、ノルウェーとデンマークがドイツ軍に占領されるや、これらの属領のアイスランドとグリーンランドがドイツの手に落ちるのを予防するため、イギリスは2万の兵力でアイスランドを占領し、島のノルウェー自治政府はこれを承認した。日本の仏印進駐の4ヶ月前のことである。 1941(昭和16)年、アメリカは在住デンマーク公使との間にグリーンランドに空軍基地を設定する協定を結んだ。ドイツ支配下のデンマーク政府はその協定を取り消したが、アメリカは無視してグリーンランドに基地を設定した。5月、アイスランドが独立を宣言すると、その承認の下にアメリカは7月、イギリス軍に代わってアメリカ軍をアイスランドに進駐させた。 東京裁判で、ブレークニー弁護士は、日本を不戦条約違反の罪に問うなら、ソ連のポーランド、バルト三国、フィンランド、ルーマニア、イランに対する侵略、イギリスのアイスランド侵入、アメリカのアイスランドとグリーンランド進駐、オーストラリアとオランダによるチモール島占領などの侵略行為を立証する文書を提出した。 これに対し、裁判長のウェッブ(オーストラリア人)は、東京裁判は日本の侵略戦争以外の戦争を裁く権限はないなどとほざき、却下した。結局、これらの戦勝国の日本と同様の行為は裁判に関係なしとして、それらに関する弁護側の証拠は却下された。 バルト三国併合との比較: ソ連のバルト三国進駐は北部仏印進駐より3ヵ月も早く行われた。ソ連は三国政府と何の交渉も行うことなく、突如最後通牒を突きつけ、ほとんど即日これを受諾させ、バルト三国全土にソ連軍の自由進駐を認めさせたうえ、親ソ政権まで樹立した。バルト三国の主権尊重などソ連の眼中にもなかった。 これに比べて日本の仏印進駐は紳士的であった。二か月に及ぶ辛抱強い外交交渉の末に結んだ協定では、仏印に対するフランスの主権と仏印の領土保全の尊重を約束した。ソ連がわずか17万平方キロのバルト三国に10万もの軍隊を自由進駐させたのに比べて、日本が75万平方キロという広大な仏印に進駐させたのは6千以下の軍隊である。駐屯地域もトンキン州の4ヵ所の飛行場周辺に厳しく制限されていた。しかも、この駐屯は支那事変解決までの臨時措置であることを日本は明文を持って約したのに対し、ソ連はバルト三国をたちまち併合した(独立できたのは50年以上たった1991年である)。 これ以上のあからさまな侵略、他国に対する政治犯罪はない。これに触れずに日本の北部仏印進駐を侵略だと論じたてる者は無知か馬鹿かのいずれかだろう。 |
参考文献 | 歴史年表 |