12月1日御前会議(1941年)

ハル・ノート受領後の連絡会議が開かれた後、日本はふたたび御前会議で最終的に行動を決することになった。

昭和16(1941)年12月1日、対米英蘭戦を決定する御前会議が開かれた。11月5日決定の帝国国策遂行要領に基づく対米交渉がついに不成立に終わったからであった。

席上、東郷外相はハル・ノートについて「半年を超える交渉経緯を全然無視せる不当なるものである。アメリカは終始その伝統的理念及び原則(門戸開放のこと)を固執し、東亜の現実を忘却し、しかも自らは容易に実行せざる諸原則を帝国に強要せんとするもので、わが国幾多の譲歩にもかかわらず、7ヵ月余りの全交渉を通して当初の主張を一歩も譲らなかった。ハル・ノートは到底容認し難きもので、アメリカ側がこれを撤回せぬ限り、交渉を継続しても我が主張を貫徹することはほとんど不可能という他なし」と述べた。

東條首相はじめ政府と統帥部の各責任者より所管事項の説明がなされ、また原枢密院議長からも「アメリカの態度は帝国の忍ぶべからざるもので、この上、手を尽くすも無駄なるべし。したがって開戦も致し方なかるべし」との意見が表明された。
かくして出席者全員の賛成で開戦が決定された

すでに11月26日、ハワイ作戦のため択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾を発進して一路太平洋を東航中の日本海軍機動部隊に対しては、12月2日夜「新高山(にいたかやま)上れ1208」という隠語電報が発信された。「開戦日は12月8日と決定せらる。予定通り攻撃を決定せよ」との命令であった。真珠湾攻撃はここにおいて最終決定されたのである。

  真珠湾攻撃(日米開戦)
  マレー半島上陸

参考文献:大東亜戦争への道(中村 粲著)


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参考文献 歴史年表