近衛内閣総辞職を受けて、組閣の大命は東條英機陸相に降下した。これは東條にとって、誠に予期せぬことだった。 大命とともに木戸内府を通して「9月6日の御前会議決定にとらわれることなく、内外の情勢をさらに深く検討し、慎重なる考究を加うることを要す」との御掟(ごじょう、天皇の御言葉)が伝えられた。これがいわゆる「白紙還元の御掟」である。「10月上旬までに交渉が成立しなければ直ちに開戦を決意する」との9月6日午前会議決定を白紙に戻して対米交渉をやり直せ、と仰せられたのだ。 東條陸相が後継首相に推された理由: 近衛首相の意見
木戸内府の意見
これが東条が後継首班に推された理由で、彼自身全く予期せぬところだった。 彼が新首相の他に内相を兼任したのは、「もし和と決する場合には相当の国内的混乱が予想されるので、自ら内務大臣として責任をとる必要がある」と考えたからで、以下にも責任感の強い東條らしい判断であった。 東条は首相と陸相を兼任。外相は和平主義者の東郷茂徳。 東條は「白紙還元の御掟」をただちに実行に移した。東條新内閣が発足するや、連日、政府・統帥部連絡会議を開き、日米交渉に臨む基本方針が再検討された。 第一回会議の冒頭、永野修身軍令部総長は、海軍は毎時400トンの油を消費しており、事は急を要すると述べ、杉山元参謀総長も時間の空費は許されぬとして廟議の即決を迫った。石油貯蔵量からして、戦機はすでに秒読みの段階に入っていたのである。石油の補給はきわめて困難であった。石油消費量は毎年、軍需民需合わせて550万トンになるが、それは昭和18年度までは何とかなるものの、それ以後は南方石油に頼る他なかった。11月開戦ならば30ヵ月、3月ならば21ヵ月で我国の石油備蓄はゼロになる計算だった。 議論は支那撤兵問題で最高潮に達した。東條首相は嶋田海相に対し「今更後退しては支那事変20万の精霊に対して申し訳なく、されど日米戦争になれば多数の将校を犠牲とするを要し、誠に思案に暮れあり」と内話して、改めて日米不戦の公言を暗に海軍に求めたが、嶋田海相、岡軍務局長ともこれを黙殺したという。 東條内閣が陛下のご意向を体して、交渉による打開策を真剣に模索した。 支那駐兵期限については、参謀本部側が強硬に反対し、早期撤兵論の外相と激論数刻に及んだ。駐兵期限として99年、50年を主張する案もあり、外相は5年を主張し、結局25年に落ち着いた。無期限駐兵や長期駐兵は連絡会議で否定された訳である。 参考文献:大東亜戦争への道(中村 粲著) |
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