近衛内閣総辞職(1941年10月16日)

9月6日の御前会議で決定した期限(10月中旬)までに対米交渉解決の目処がつかなかった。
荻外荘会談などで話し合いがあったが、結局は何も決めることができず、行き詰った近衛内閣は昭和16年(1941)10月16日、総辞職したのである。

第三次近衛内閣を崩壊させたのは東條英機外相の強硬な支那撤兵反対論であったと一般には言われている。だが、東條の説は必ずしも暴論とは言えない。
まず第一に、近衛文麿首相と外相は日米交渉の難点は支那派兵問題で、これについて譲歩すれば交渉は成立すると主張したが、交渉の難点は東條の言うとおり、「四原則」承認、三国同盟の解釈、仏印進駐(北部仏印進駐南部仏印進駐)、通商無差別などもあり、支那から撤兵すればまとまると考えるのはあまりに安易であり、それはやがてハル・ノートで思い知らされることになる。
第二に、近衛首相は完全撤兵し、後に支那との協定で防共駐兵を認めさせればよいという。多くの居留民や権益財産のある支那からの完全撤兵が一時的にせよ可能であろうか。仮にそれが実現したあかつき、重慶政府は改めて日本の防共駐兵を承認するだろうか。撤兵すれば支那の侮日排日はますます激化して第二、第三の支那事変が起こるという東條説は、近衛の楽観論より説得力がある。

東條陸相としては、海軍が「戦争不可」を明言すれば撤兵問題で譲歩しても戦争回避の方向で進むはらだった。その点で、東條を単純に開戦論者とみなすのは間違っている。
東條に開戦の責任を負わせる東條悪玉論が流行している。左翼偏向書籍や教科書では、いかにも東条陸相が対米即開戦を迫って近衛を窮地に追い込み、内閣を崩壊させたかのごとく記述している。
だが、東条陸相が近衛内閣総辞職を主張した理由は、
  1. 日米交渉で日本の要求を貫徹する目途があるかどうかを断定しうるまで交渉が十分に詰められていない。
  2. 海軍の開戦決意が不確実であることによって、9月6日の御前会議の決定が不適当となったこと。また不適合であるにせよ、御前会議の決定が実行できないとすれば、政府は責任をとって辞職し、新たな政府の責任で9月6日午前会議決定をやり直し、日米交渉に新たな努力をなすべきである。
ということであった。
御前会議の責任をあくまで明確にせんとしようとする東條の主張は正論というべきだろう。
東條自身、宣誓供述書で「御前会議の決定通り実行しない方がよいと考えていた」と述べている。彼もまた即時開戦を不可とする考えに傾いていたのだった。

後継内閣組閣の大命は東条陸相に降下した。

  東條内閣成立

参考文献:大東亜戦争への道(中村 粲著)


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参考文献 歴史年表