暫定協定案(1941年11月22日)

日本が乙案を提出した後、コーデル・ハル日本を有利にせず、かつアメリカの同盟国の信頼を裏切ることなく破局を引き延ばすような対案を考え始めた。フランクリン・ルーズベルトも単に遷延を目的とする暫定協定を構想してハルに伝え、それに基づいてハルは(1)日本軍の南部仏印撤退、(2)非軍事用石油の対日輸出緩和 - を骨子とする三ヶ月の暫定協定案を11月22日にまとめ、イギリス、オランダ、オーストラリア、支那(重慶政府)の各代表に内示した。

だが、この暫定協定には支那が激しく反対した。後にハルは「蒋介石は国務省以外の政府高官連に数多のヒステリックな電報を送りつけ、時には大統領を無視してまでも、事実を知らぬまま、微妙かつ重大な状況の中に押し入ってきた」と述べている。

ルーズベルトは交渉引き延ばしを目的とする暫定協定案をハルに作成させる一方、対日戦争を策謀していた。11月25日の戦争関係閣僚会議でルーズベルトが議題としたのは和平の見通しではなく、戦争はいかにして開始されるかの問題であった。

  戦争関係閣僚会議(1945年11月25日)

戦争関係閣僚会議の翌日(11月26日)朝、支那の工作に動かされたイギリスのチャーチルからフランクリン・ルーズベルト宛ての電報が届いたが、それは暫定協定案は支那を不利に追い込むとの立場から批判するものであった。
このような状況の中で、ハルはついにこの日の午後、ほとんどヒステリー状態になって日本との暫定協定構想の一切を放棄し、その代替案として10項目の提案をまとめ上げたこの10項目提案の中にはいささかの妥協も譲歩も含まれておらず、ハルもルーズベルトも、日本がこれを拒否するであろうことは十二分に承知していた。暫定協定案に代わるこの10項目提案、いわゆるハル・ノートはこの日の午後5時、ハルを往訪した野村・来栖両大使に手交された。

  ハル・ノート手交(1941年12月26日)


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参考文献 歴史年表