ハル・ノート(日米間協定の提案基礎の概要)(1941年11月26日)

日本はアメリカとの和解への道を懸命に模索していたが、アメリカは日本との和解の意思などはじめからまったくなかった。戦争関係閣僚会議の翌日、昭和16(1941)年11月26日、野村吉三郎、来栖三郎両駐アメリカ大使に「日米間協定の提案基礎の概要(通称:ハル・ノート)」を突きつけてきた。

チャーチルから批判されてほとんどヒステリー状態になったコーデル・ハルは、日本との暫定協定構想の一切を放棄し、その代替案として10項目の提案(これがハル・ノートと呼ばれるもの)をまとめ上げたのだ。

  暫定協定

この10項目提案の中にはいささかの妥協も譲歩も含まれておらず、ハルもルーズベルトも、日本がこれを拒否するであろうことは十二分に承知していた

ハル・ノートの主な内容は以下の通りである。

  • 支那大陸やフランス領インドシナからの即時無条件完全撤退
  • 汪兆銘政権(南京政府)を見捨てて重慶の蒋介石政権(重慶政府)を支持すること
  • 日独伊三国同盟の死文化(事実上の破棄)
  ハル・ノートの詳細内容

これらは到底日本が飲めない条件だった。
これはそれまで積み重ねてきた日米関係改善のための交渉を踏みにじる内容で、それまでの合意を一切反故にした一方的な要求であった。支那・仏印からの即時完全撤兵、蒋介石政権の支持という条件は、日本が日露戦争の前の状態に戻ることを意味し、これまで日本が行ってきたこと、すべてをが水泡に帰すような要求だった。日本に戦わずして降伏を要求するに等しいものであり、誰が見ても明らかに最後通牒であった。

この裏には、アメリカ攻府の卑劣な思惑があった。アメリカは、支那事変の解決を望まず、日本が支那大陸の泥沼戦争に足を取られて疲れ果てて大陸から撤退することを望んでいた。蒋介石政権を支援したのは支那事変を泥沼化させ、日本の疲弊を誘うためだった。
当時の国務省の文書から、日本の力を過小評価し、日本を追い詰めても立ち上がることはないだろうというのがアメリカの見解だったことが明らかになっている。そのため、アメリカは終始、日米交渉では非妥協的な態度をつらぬき続けた。
大統領のフランクリン・ルーズベルトも国務長官のコーデル・ハルも当時の白人の感覚で、有色人種を差別していたからこのようなとんでもない条件を持ち出してきたわけで、日本には妥協の余地はなかった。
しかし、アメリカが戦争に踏み切るには、大きな障害があった。当時、アメリカは孤立主義が支配的で、アメリカ世論は外国の戦争への参戦に反対してた。そこで、日本と戦争するには第一撃を日本に始めさせる必要があった。日本が先制攻撃をすれば、アメリカの世論も参戦に傾く。ハル・ノートはそのための引き金だった

近年、驚くべき事実が明らかになった。このハル・ノートは財務次官補ハリー・ホワイトが起草したもので、国務長官のハル本人が作ったものではなかった。このホワイトなる人物が実はソ連のスパイだったのだ。要するにソ連のスパイが日本を激昂するような案を作り、大統領のフランクリン・ルーズベルトに採用させることに成功し、日米開戦を誘発したのだ。
日本は日露戦争以降、アメリカの標的と目されつつ何とか日米戦争を回避できるところまでいっていたが、アメリカ国内のコミンテルンにとどめを刺され、戦争に追い込まれたと見ることもできる。
ホワイトはコミンテルンの手先であったために、戦後は世界銀行のアメリカ代表になるほどの重要人物でありながら、その疑惑のために自殺している。

ハル・ノートは日本の当時の指導部に衝撃を与えた。

もっとも和平を強く望んでいた東郷外相でさえ、ハル・ノートを野村大使から電報で受け取ったとき、「自分は眼も眩むばかり失望に撃たれた」と述べた。
東郷は、戦後次のように回想している。
「米国を指導者としての対日経済封鎖のみならず、軍事的包囲陣も日に日に強化され、日本の生存もおびやかされて来たので、もはや立ち上がる外ないと云うことだった。『ハル・ノート』を受諾した後の日本の地位が敗戦後の現在の地位と大差なきものになるべきであることは、まったく疑いの余地はなかった」
「日本がかくまで日米交渉の成立に努力したにもかかわらず、アメリカはハル・ノートのごとき最後通牒を送って、わが方を挑発し、さらに武力的弾圧をも加えんとする以上、自衛のため戦うの他なしとするに意見一致した」

嶋田繁太郎元海軍大臣は、東京裁判の法廷でこう陳述した。
「それはまさに青天の霹靂であった。アメリカにおいて日本の譲歩がいかなるものにせよ、私はそれを戦争回避のための真剣な努力と解し、かつアメリカもこれに対し歩み寄りを示し、もって全局が収拾されんことを祈っていた。しかるにこのアメリカの回答は、頑強不屈にして、冷酷なものであった。それは、われわれの示した交渉への真剣な努力は少しも認めていなかった。ハル・ノートの受諾を主張した者は、政府内にも統帥部内部にも一人もいなかった。その受諾は不可能であり、その通告はわが国の存立をおぴやかす一種の最後通牒であると解せられた。この通牒を受諾することは、日本の敗退に等しいというのが全般的意見だった」

東京裁判の被告全員がこれと同じ感懐を述べている。日本の指導者がそう受け取ったばかりでなく、後日アメリカにおいても、このハル・ノートに対する非難の声は、日を追うごとに高まった。

ハル・ノートに対する発言

東京裁判パール判事は、「現代の歴史家でさえも『ハル・ノートのような通牒を受け取ったら、、モナコやルクセンブルク大公国でさえもアメリカに対し矛(ほこ)をとって立ち上がったであろう」と述べた。

セオボルト海軍少将は「まさしくハルノートは、日本を鉄棒で殴りつけた挑発であった」と述べて、これを激しく非難した。

ジョセフ・グルー米駐日大使はハル・ノートを読み、「このとき、戦争になるボタンは押された」と開戦を覚悟したと回顧録で述べた。

フランクリン・ルーズベルトのライバルと目されたハミルトン・フィッシュ下院議員はハル・ノートの存在を知ると「恥ずべき最後通牒」と批判し、「日本は自殺するか、降伏するか、戦うしかない」と述べた。

  劣等アジア人種の品種改良計画

戦後、支那は共産化し、アメリカが主張して止まなかった「門戸開放」どころか、門戸を固く閉鎖してしまった。

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参考文献 歴史年表