日米安全保障条約

昭和26年(1951)9月8日にサンフランシスコ講和条約締結同時に日本とアメリカの間に安全保障条約が結ばれた。講和条約発効で日本は主権は取り戻したわけだが、アメリカは日本が今後も自分が作ったシステムを維持するよう、縛りを入れた。そのひとつがこの日米安保である。
これは日本の属国化を意味するものだった。国家の安全の確保を他国にゆだねるという対米依存体制がこのときできがあってしまった。自分の国を守る決意なくして、国家は存在しない。
ある国が独立を奪う目的をもって保護条約を結ぶときには、必ず国防権を剥奪する。アメリカはこのため日本国憲法に日本国憲法第9条を盛り込んだ(アメリカは植民地だったフィリピンにも同様の項目を入れさせている)。

この条約はアメリカが相手国に対して一方的に軍事保護を与えることを約した唯一の条約である。韓国と結んだ米韓共同防衛条約も、フィリピンとの米比共同防衛条約も、アメリカ本土が第三国から攻撃を受けた場合、アメリカを救援するために、アメリカの側に立って戦うと定めている。人口40万人のルクセンブルクでも北大西洋条約を通じてアメリカとは対等な条約を結んでいるが、日本との日米安保条約だけが対等ではない条約となっている。

この安保条約は吉田茂が発案した形をとっており、日本がお願いして日本とその周辺にアメリカ軍の駐留を認めるという体裁をとっており、期限も決められていない。吉田はサンフランシスコ講和条約の締結で形式上、独立の格好だけは整えたが、アメリカに全面的に依存したため、真の独立はますます遠のいた。吉田の選択が戦後の禍根を生み、日本人の精神を崩壊させ始めたわけだ。

条約締結前の昭和26年1月にダレス米講和特使が来日し、吉田に日本の再軍備を要求している。マッカーサーも極東の安全保障に日本はもっと寄与すべきだという考えを示していた。ところが吉田は、軍事的・外交的にアメリカに従属する道を選び、日本が真に独立国として再出発する好機を逃した

この安全保障条約があったから戦後の日本の平和が保たれたのも事実である。戦後の平和は平和憲法のおかげだと戦後教育は教えてきたが、それはまったくの嘘である。

この条約は昭和35年(1960)に改定される。

  60年安保改定(1960年)


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参考文献 歴史年表