アメリカがわずか6日間で作り日本に押し付けたもの。そもそも主権がない占領下で、主権の発動たる「憲法」を制定すること自体が思いっきり矛盾している。制定の経緯はこのページの下のほうに記載したとおり、自主制定されたなどとは口が裂けても言えないもので、「アメリカ制憲法」「占領軍憲法」「植民地憲法」と呼ぶべきものである。 日本国憲法は、当時の日本の国会である帝国議会で審議され、承認されるという手続きを踏んでおり、いかにも日本人が自主的に作り上げた憲法であるような体裁をとっているが、これはアメリカの戦略だった。アメリカ政府は、新憲法が制定される前に、GHQに対して再三にわたり、憲法が押し付けられたものであるという事実を日本国民には覆い隠すよう、また、日本国民が自分たちで自主的に定めたと錯覚するように仕向けることを要求した。 検閲(第三条) GHQはこういうものを軍事力を背景に押し付けて、しかも、もしこれを日本政府が、吉田政権が受け入れなければ、天皇の身柄は場合によっては危ういぞ、という強迫までした。つまり、占領軍は不当な脅迫の下に日本政府に憲法を押しつけたのである。 戦後できた日本国憲法は、占領軍憲法で改正しなければならないと、制定前後から日本の指導者の多くが思っていて、マスコミも憲法改正をみな唱えていた(朝日新聞、社会党、共産党ですらも憲法改正を要求していた)。 しかし、吉田茂がサンフランシスコ講和条約締結と同時に日米安全保障条約を結び、アメリカに全面的に依存したため、真の独立はますます遠のいた。吉田の選択が戦後の禍根を生み、日本人の精神を崩壊させ始めた。 サンフランシスコ講和条約締結 日米安全保障条約 対日講和条約によって独立を回復したならば、憲法改正を試みるべきだったが吉田は軍事的・外交的にアメリカに従属する道を選び、日本が真に独立国として再出発する好機を逃した。吉田は防衛をアメリカに依存し、負担を軽減することによって経済的に復活を目指そうとした(吉田ドクトリン)。この方針によって、日本が戦後の食糧危機を脱し未曾有の経済成長へと進んだのは事実だが、経済一本に絞ったために国民の力は経済にすべて結集され、この集中力が日本人の勤勉さや教育水準の高さとあいまって高度成長を実現した。しかし、その代償は大きく、経済優先の路線が日本人の正気を次第に奪っていった。 昭和30年、自由党と民主党の二大保守政党は大合同し、自民党が結成された(55年体制)。そのとき自民党の党是に「自主憲法制定」が謳われることになった。これはきわめて重要なことで、この党是がなければ、日本人は、現行憲法が占領憲法であることを忘れ、半永久的に憲法改正のチャンスを逸したかもしれない。 党人派政治家たちは、保守合同の後も、独立体制の確立に向けて着々と布石を打った。初代総裁の鳩山一郎は「小選挙区制」を導入して自民党の議席を一気に増やし、憲法を改正して、自衛隊を明確に軍隊として認めさせようとした。しかし、小選挙区制法案は党内の合意が得られず、廃案になってしまった。そこで鳩山内閣は昭和31年に内閣に憲法調査会を設置させた。この調査会の答申の結論は「改憲必要あり」だったが、この頃になると、吉田茂の弟子たち(官僚政治家)が力を持つようになっていた。総理大臣は池田雄人、佐藤栄作という吉田の弟子が占め、両政権は改憲運動を断念する方向へ向けた。日本の経済繁栄がなると、党内での憲法議論も下火になり、また、戦後教育にどっぷりと浸った新しい世代が増え、社会の中枢を占めるようになり、ますます健全な考え方は影が薄くなっていき、やがて憲法改正はおろか憲法を論じるのでさえタブーという風潮が生まれてきてしまった。 朝日新聞は昭和28年まで改憲を唱えていたが、昭和29年になると、一転して憲法擁護の立場を始めて強く打ち出した。敗戦から時間がたち、アメリカの軍事保護にすっかり馴染むにしたがって、国家意識が希薄になり、護憲主義が力を増すようになってくると、次第に朝日新聞は病的ともいえる憲法擁護主義に傾いていった。論調は朝日得意の「いつか来た道を再び歩むのか」「戦前の侵略国家に戻っていいのか」だった。 朝日新聞だけでなく、マスコミの多くが戦後のアメリカのプロパガンダに毒され、左翼思想に染まり、正しい筋道を見失ってただ護憲を叫んでいれさえすればいいのだという錯覚に陥っていった。これがまた国民の世論を形成し、ますますマスコミは迎合主義から逃げ出せなくなり、現行憲法は不可侵のものだという考え方がさも当然のように幅をきかした結果、改憲というとアレルギー的に反発するという風潮が出来上がった。 封じ込められた憲法議論を復活させる刑期を作ったのは読売新聞が平成6年に発表した「憲法改正試案」だった。 この思案は内外に大きな反響を呼び、これをきっかけに国内で改憲ムードが再び高まった。 前文には「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」というわけのわからないことが謳われている。これはつまり、日本国民の「生存」を他国(支那、朝鮮[北朝鮮、韓国]、ロシアといった極悪国家)に委ねるという恐ろしいこと。支那、朝鮮、ロシアはいずれも平和を愛する国ではない。そういった国々の「公正と信義」を「信頼」することなどできるわけがない。このような馬鹿げた前文は即刻削除されるべきであろう。主権の発動がないことをこの前文が証明している。主権国家ならこんなことは絶対に言えない。 アメリカは第二次世界大戦を「ファシズム」と「民主主義」の戦いに民主主義が勝利した、などということを真顔で主張している。そのため戦前の日本に民主主義があっては都合が悪いため、大日本帝国(明治)憲法を全面的に否定し、新しい憲法に変えさせる必要があった。ところが日本は現在と比べれば劣るが戦前から世界有数の民主主義国であった。議会も存在し、対米戦争開始以降2回も内閣が代わっている。 ちなみにアメリカでは黒人が公民権(選挙権・被選挙権)を保証されたのはやっと1965年になってからである。人種差別により自国民の黒人には公民権を与えなかったアメリカが日本よりも民主的な国家であったなどとは口が裂けても言えない。 近代戦時国際法(ハーグ陸戦法)においては、勝者が敗者の主権を無視して恒久的な法を作ってはいけないと規定している。アメリカが日本に憲法を押し付けたのは明らかな戦時国際法違反だった。 近代戦時国際法(ハーグ陸戦法) 日本はGHQの言いなりになっていたわけだが偉い人もいた。天皇機関説を唱え、その著書が絶版・改定を求められた美濃部達吉顧問官は、枢密院の審議で改正草案に一人反対した(つまり他の輩はすべて賛成したということ)。憲法がGHQの押し付けにもかかわらず、前文に憲法が国民の意思で制定されたのごとき虚偽を掲げることは、国家として恥ずべきことであると主張した。 憲法は枢密院本会議で清水澄議長(法学博士)のもとで可決された。GHQに押し付けられた憲法を日本人の意思で制定したかのごとくして、自らの手で可決せざるを得なかったこと、GHQの圧力に抗しえなかったことに対する屈辱感、無念さから、翌年清水博士は自決した。 占領体制を維持し、自分たちの都合のいい政治体制を未来永劫続けるためには、その大本になる憲法に是が非でもアメリカの意向を反映させておかなければならないと考えたマッカーサー司令部は新憲法に巧妙な仕掛けをほどこした。アメリカは、新憲法の中に憲法改正が容易にできない条件を盛り込んでおいたのだ。 第96条には 「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする」 と定められている。つまり、出席者や有効投票数の三分の二以上ではなく、総議員数のの三分の二の賛成票が必要ということ。これは反日政治家の多さを考えれば不可能な数字であり、憲法改正は事実上、その道を封じられているに等しい。 アメリカの仕掛けはまだある。戦後できた日本国憲法は、戦前の大日本帝国憲法を改正したという形式をとっている。本来なら大日本帝国憲法と新憲法はまったくかけ離れており、改正などと呼べるものではない。アメリカがあえて改正という形式にこだわったのはそこに深謀遠慮があったからである。古い憲法を改正するといういかにも合法的な措置を取ることによって、自分たちの無法を正当化し、かつもとの憲法に戻る道を封じ、アメリカの都合のいい憲法をずっと遵守させようという巧妙な策謀があったのだ。 改正は難しいが、憲法の破棄なら通常の国会手続きでできる。現行憲法は改正ではなく、破棄して新しい憲法を作るべきというまっとうな考えを持つ人が徐々にではあるが増えている。 首相が「占領中に定められた法律は全部一度無効だ」と宣言して、新憲法制定に取り掛かるのが一番望ましい。 フランスでは、ドイツ軍が支配しているときにヴィシー政権というナチスの傀儡政権ができて法律が作られた。ところが、ドゴールが戻ってきてヴィシー政権が作った法律は全部無効にした。それが当たり前であり、日本が異常なのだ。 駐日米国大使を務めていたマイク・マンスフィールドが「私の履歴書」(1999年9月)の中で、次のような発言をしている。 「日本から朝鮮半島に回した米軍の穴を埋めるため、吉田茂に7万5000人の警察予備隊の創設を命令したことだ。これがいまの自衛隊になるわけだが、マッカーサーは連合国軍総司令部(GHQ)が作成した「米国製」の日本国憲法第9条を迂回したものといえる。戦争放棄を定めた日本国憲法第9条は、マッカーサーの直接の指示を受けてGHQ民生局のチャールズ・ケーディス次長を中心に作った条項で、どこからみても米国製だ。日本に戦争を放棄させ、安全保障を米国頼みにさせたのは米国である」「今後どうすべきかは、日本の国民と国会が判断すべき問題だ」 憲法改正反対を声高に叫ぶ連中の中には「憲法があるから平和が保たれてきたし、現在の豊かさを築いていた」などと真顔で言う馬鹿がいるがそれは明らかな嘘である。日本国憲法があるからソ連は日本本土に侵略してこなかったのではなく、アメリカ軍が駐在していたからである。 本来ならば、昭和26年(1951)9月8日にサンフランシスコ講和条約を結び日本が独立国への復帰を果たした時点でこの「マッカーサー憲法」を改正し、主権国家の地位を確立すべきだった。しかし、そのときの首相・吉田茂は対米追従路線に終始し、この機会を逸した。そののちは、野党、マスコミ、進歩的知識人といった左翼勢力により、憲法の改正を俎上に乗せるのさえタブーの時代が続く。 このアメリカ製の憲法を日本は一度も改正を行なっていない。アメリカは26回、ドイツのボン基本法は35回など、憲法改正していないのは日本を除くとバチカンぐらいである。日本同様、占領国の意向により制定時には軍隊に関する取り決めは一切含まれていなかったボン基本法も、東西冷戦が進展して1951年のパリ協定で西ドイツのNATO加盟が決定されたことなどにより再軍備の必要が出て、1956年の改正で、18歳以上の男子の兵役義務、軍隊の設置が明記された。 近年になって良識者の努力が実り、平成12年(2000)1月、戦後初めて国会の衆参両院に憲法調査会が設置され、憲法論議が本格的に始まったが、憲法改正どころか公明党の横槍などがあってまったく進んでいない。 |
昭和20年 | 10月 | 東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)内閣の近衛文麿国務相がマッカーサーと会見し、憲法改正の示唆を受ける。 | ||||
2月8日 | 幣原喜重郎内閣のもと、憲法問題調査委員会によって起草された憲法改正案が正式にGHQに提出される。 しかし、憲法問題調査委員会に草案を作らせておきながらすぐにマッカーサーはそれを拒絶、自分が一番の信頼を置いていた民生局長のホイットニーに作成を命じた。ホイットニーから作成を託されたケーディスは、自分も含め24名で6日間で草案を作った。その英文の草案が憲法問題調査委員会に手渡された。 憲法問題調査委員会は、大慌てで英文草案を翻訳。 |
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2月22日 | 幣原内閣はGHQ草案受け入れを閣議決定し、GHQ案を下敷きにして草案を作り直す。 | |||||
昭和21年 | 3月6日 | 草案「憲法改正案要綱」が発表される。これは日本政府が自主的に作成したものではなく、GHQが作成した原案の翻訳にすぎない。 | ||||
当時日本に主権がなかったし、何をするにもGHQの承認が必要だった。占領政策の批判は一切禁じられ、違反者は裁判にかけられ重労働の刑に処せられていた。 日本側の粘り強い交渉で一部修正が認められたものの、政府案はGHQの作成した原案に沿った内容とならざるを得なかった。 政府案とGHQ案の最も大きな違いは以下の通り GHQ案には「一切の土地や天然資源の究極的所有権は人民の集団代表者としての国会に帰属する」という一文が入っていたがこの部分は削除された。これが削除されなかったら日本の土地は国有制になっていた。 GHQ案では国会は一院制だったが政府案では衆参二院制に修正された。さらに国会の審議過程で一部修正されたが、GHQの草案はほぼ全面的に受け入れるしかなかった。 |
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8月 | 衆議院で一部修正して可決。 | |||||
10月 | 貴族院で承認。日本国憲法として成立。 | |||||
11月3日 | 公布。 |
参考文献 | 歴史年表 |