昭和60(1985)年11月8日の衆議院の外務委員会において、外務省見解を代表した形で、大和田恒(おおわだひさし)は、土井たか子の質問にこう答えている。 「ここで裁判(東京裁判)を受諾しているわけでございますから、その裁判の内容をそういうものとして受けとめる、そういうものとして承諾するということでございます」 大和田は「東京裁判を受諾して日本は国際社会に復帰した」という主旨の表現に終始した。 この時点で日本の外務省の正式見解は、裁判と判決をごっちゃにしているという致命的な誤りを犯している。東京裁判は、いわゆる「A級戦犯」の誰もが受諾も、納得もしていない。たとえば東条英機被告の「宣誓供述書」を見ればわかるが、受諾したのは判決のみである。他の被告も同じ。これは敗戦国の指導者たちとして捕虜状態にあるのだから逃げるわけにはいかない。大和田を代表とする外務所の見解は日本政府の見解として今も政治家を縛っている。 「裁判」受諾と「判決」受諾は全く別物である。しかも初判決は個人個人に対するものであり、日本国や日本人全体に対するものではないのだ。 サンフランシスコ講和条約締結 「後藤田談話」 外務省の「日本断罪」史観はここから始まった。このころから、外務省は「日本断罪」、つまり東京裁判の検事側の論告を丸飲みにしていた。 東京裁判というのは、キーナン首席検事が何度も言っていたように、日本人や日本国を裁くものではなく、”日本国を悪に導いた”個人を裁くものだった。個人は死刑になったり無期禁固刑になったりしたが、これは後に無茶な判決であるということで、サンフランシスコ講和条約11条後半の条文に基づき、みな無罪になっている。死刑になった人は生き返らせることができなかっただけだ。東京裁判の個人に対する判決はこの一事を見てもわかるように内容のないものだった。 この大和田の発言以来、外務省は「反日」といえるほどの韓国、支那にべったりの意見を言い、政治家は「外務省の言うことだから」とそれを政府の意見としてしまう悪習が続いている。 その後、日本が悪かったという自虐史観が東京裁判の当事国でもない支那共産党にも伝わり、それ以来、日本は支那に弱い国となってしまった。 「村山談話」 |
参考文献 | 歴史年表 |