自国と友好国を「ブロック」として、関税障壁を張り巡らし、他のブロックへ需要が漏れ出さないようにした状態の経済体制。 1930年ごろ、アメリカはホーリー・スムート法で、イギリス連邦とその植民地もオタワ会議で、それぞれブロック経済に移行した。 ホーリー・スムート法(1929年) オタワ会議(1932年) ブロック経済が日本に与えた影響は非常に深刻なものがあった。 開戦時と終戦時の外相を務めた東郷重徳は以下のように述べている。 「工業原料の大部分を輸入に仰ぎ、生産の30%以上を輸出して居た日本は大きなる打撃を受け、失業者は激増し、農産物は暴落し、国内の不安著しく増大した 同じようなことは東條英機が東京裁判の宣誓供述で、また、ダグラス・マッカーサーも帰国後に上院の軍事委員会で述べている。 マッカーサー「自衛戦争」証言(1951年) この保護貿易体制が第二次世界大戦につがなった根本的な原因であり、英米の首脳はそれを認識していたと渡部昇一氏は指摘している。その最大の理由は、大戦中にブレトンウッズ体制を作り、戦争が終わったら自由貿易を基本として世界経済を計画した。 ブレトンウッズ体制(1944年) このようなことを戦争中に考えるのは、戦争の原因が貿易秩序を壊したところにあるという反省からだ。ただしそれを公言したら、悪いのは自分たちとなるから、戦争が起きたのはヒトラーや日本が悪かったからと言っているだけである。ちなみに、昭和7年、高橋亀吉や石橋湛山は「週刊東京経済新報」でブロック経済が進むと戦争になるという趣旨のことを書き、それがもとで戦後、公職追放になった。これはアメリカやイギリスの一番痛いところを突いたからだろう。 ひとことでいえば、ブロック経済こそが昭和の悲劇の正体である。これがわからなかったために、ロシア革命の影響を受けた若者たちが、日本の労働者が貧しいのは指導階級が悪いからだという方向に向いてしまった。 |
参考文献 | 歴史年表 |