日本には「まこと」を大事にする神道文化の土壌があり、歴史の捏造を排し真実を求めることが当然視されている。 しかし、支那では、歴史の捏造こそが「文化の根源」なのである。天命より王朝が易(かわ)ると称する易姓革命の国だから、前の王朝の歴史を記述するのは現王朝の史官(史実の記録を司る役人)である。彼らが権力におもねって前王朝の歴史を捏造することは、数千年来のごく当たり前な政治手段であったし、今でも同じである。 実際、現在支那で使われている歴史教科書も「南京大虐殺」を含め、徹頭徹尾、誇大・捏造で満ちている。その目的とするところは社会主義の最終防衛や愛国主義、民族主義を煽ることだ。要するに愚民政策である。 支那人にとって歴史とはその場しのぎの政治の道具にすぎない。だから支那の教科書に描かれる歴史など、学者や専門家の研究成果というより、共産党政府の「指示」「命令」あるいは共産党の史部、文化宣伝部の会議での決定による創作である。 中華人民共和国の近代史教育では、日清戦争以降の日本軍の侵略や残虐性、それによる支那人の被害、もしくは勇敢なる抗日戦争とその勝利を強調する。反対に、支那事変以上に熾烈だった内戦については、ほとんど無視、黙殺、抹消している。 支那の歴史教育は「勧善懲悪」が基本内容である。たとえば階級史観にもとづくと、地主階級や支配階級の搾取は絶対的な「悪」で、民衆や農民の反抗は絶対的な「善」との判決を下す。そこに民主主義・愛国主義が加わると、ことさら”日本の侵略”と”人民の勇敢な抗戦・勝利”を強調し、”支那人民の偉大さ”を誇張することになる。露骨な政治的プロパガンダにすぎない。 韓国は1948年以来、すでに議会制民主主義をスタートさせてはいるが、まだ十分に成熟していない。そこで民族主義やナショナリズムを定着させるため、相変わらず独善的な歴史教育と国定の教科書を必要としている。その面ではいまだ全体主義国家だといえる。 全体主義国家が全体主義的歴史観を持つのはその国の自由だが、それを外国にまで押しつけたら明らかに内政干渉であり、迷惑千万である。 支那や朝鮮の政府が全体主義国家であることは簡単に証明できる。日本に見られるような「自虐的」な学者には少なくとも社会的に存在しえない。だから日本に対する「過去の植民地支配と侵略」に関する反省、謝罪要求は、あたかも宗教信仰のごとく”無謬”と考えられ、いかなる異見も許されない。 日本の「自虐史観」派は、「強化者で特定の政治勢力や宗教を攻撃したり、他民族を蔑視している。ナショナリズムやイデオロギーを強調してはいけない」と主張しているが、どういうわけだか支那や朝鮮の教科書は批判しない。 参考文献:日中戦争は侵略ではなかった (黄 文雄) |
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