昭和12年(1937)12月の日本軍の南京攻略時に日本軍が支那兵や支那の一般市民を不法かつ大量に殺害したと一部の者が騒いでいる出来事。これは支那人の描き出した幻影であり、壮大なる嘘である。かつて「田中上奏文」という偽文書で世界を欺いた支那が、性懲りもなく世界を舞台に試みた第二の大狂言である。 もう少し詳細を以下のページに記載。 いわゆる「南京大虐殺」の詳細 支那人にとってこれは歴史問題ではなく、むしろ政治の問題である。 支那は事実がどうであったか議論することは一切ない。子々孫々の代まで教科書で「大虐殺」(支那語では「南京大屠殺」)を教え込まなくてはならないと決められている。 この「南京大虐殺」は支那人にとって、証拠に裏付けされた揺るぎない事実であり、絶対に否定してはいけないものと決められている。 殺害されたとする人数は、過去には「百万人以上」ともされたが、これはあまりに大げさすぎるので、支那共産党は「三十万人以上」と決定し、今日ではそれに対する異説は許されなくなっている。数字が確定したので、あとは「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館」など、歴史博物館の展示内容と宣伝技術をいかに強化するかだけが、残された課題である。 党によって「虐殺」の事実が決定した以上、支那ではこれをめぐるさらなる議論は存在しない。あるのは日本側から虐殺否定論が出されるたびに「絶対謝罪もしなければ反省もしない」と日本民族の醜悪さを喧伝し、虐殺プロパガンダの好材料にするくらいのことである。 今の支那にとって「南京大虐殺」、中華民族の愛国心鼓舞と団結のため、絶対欠かせない聖域となっている。 だから歴史の捏造が暴露されても、それを支那の国民に知らせることなど絶対にしない。 日本軍による虐殺はなかったが、支那人による虐殺は多数ある。最近でもチベット侵略、文化大革命、六・四天安門虐殺など数多い。 支那の軍隊は、清の全盛期が過ぎてからはまさに兵匪そのものと化していた。戦争になると略奪、暴行、虐殺はお手のものである。 ことに、残虐行為は彼らが敗走するときに目立った。進撃しているときではなく、撤退しているときんこそ、虐殺・暴行を働いている。 虐殺は古代から一貫する支那の伝統文化である。王朝の交代期に敗残兵が都城で大虐殺を繰り広げていたことは、各時代の正史の記録でも明らかである。 南京城はたびたび大虐殺に見舞われている。魏晋南北朝の時代だけでも300年以上にわたって大虐殺が繰り返されている。宋、隋の時代も、その時代以降も惨劇は繰り返され、そのために廃墟になったこともある。近代に入ってからも1864年や1913年に南京では大虐殺が行われている。 支那側が記述する日本軍の「大屠殺」の情景は、支那歴代王朝のそれに酷似している。 支那側の主張する日本軍による”虐殺”を調べてみるとき、それらがことごとく支那伝統の猟奇的屠殺方法を日本人の上に仮託した虚構であることがわかる。悲しいかな、支那人は、彼らの国で行われてきた虐殺が、日本人の民族性と相容れず、したがって日本の歴史の中にほとんどその類例を見出し得ない事実を認識できないのである。憐れむべし、彼らは自らの裡に潜在する嗜虐性は、日本人の裡にもまた潜在すべしと臆断して遅疑するところがないのである。それゆえ、日本人から見れば、支那人が日本軍の”残虐行為”を揚言すればするほど、彼ら自らの嗜虐性を暴露し告白する姿を其処に見出すことになるわけだが、彼らには、二図からのその姿が見えないのである。 東京裁判以降、支那側の”屠殺証言”を日本人として補強し、再生産するのに与ったのは朝日新聞の記者・本多勝一の書いた「中国の旅」である。 中国の旅 東京裁判の弁護側の証人の証言を以下のページに記載。これを読めばどういう状況だったのかが分かろう。 「南京大虐殺」に関する東京裁判弁護側証人の証言 日本では虐殺は異常なこととされるのに対して、支那では虐殺は日常茶飯事であった。 参考資料: 日中戦争は侵略ではなかった (黄 文雄) 大東亜戦争への道 (中村 粲) |
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