1927年(昭和2)、モスクワのコミンテルンから日本共産党に届いた指令。そこにははっきりと「天皇制の廃止」がうたわれていた。 以下のようなテーゼが送られてきた。 「天皇は大土地所有者であるだけでなく、多くの株式会社および企業連合の極めて富裕な株主である。最後、天皇はまた、資本金一億円の彼自身の銀行を持っている」 「天皇制の廃止」 「天皇、地主、政府および寺社の領地の没収」 このような日本の実情を無視した極めて攻撃的なテーゼが送られてくると、初期の大物党員たちは日本共産党を脱退していった。ロシア革命のとき、レーニン以下の共産党員は、ロマノフ王朝の皇族全員、さらには皇帝の乗っていた愛馬まで殺した。そんなことを日本の天皇や皇族に対してやれというのか、これではとても付き合いきれない、と日本共産党を去っていったのだ。 それでも共産党を離れなかったのは、よほど日本に怨みのある人、宮本顕治、徳田球一らや、朝鮮系の共産党員だった。 1927年(昭和2)、当時の共産党幹部たちはコミンテルンから呼び出され、雁首をそろえてモスクワ入りした。モスクワに行ってみたら自分たちの理論を完膚なきまでに批判された。いつ殺されるかわからない雰囲気だったため、彼らは怖くて何も反論できなかった。当時のソ連は平気で人を殺しまくっていたのだ。 モスクワから「27年テーゼ」をもらった日本共産党は、それまでのインテリ中心の運動から労働者、農民を巻き込んだ闘争へと路線をシフトさせている。それと共に武装化が進み、党の幹部達は全員拳銃をもって警官に抵抗するようになった。そして共産主義者による官憲殺傷事件が多発した。 22年テーゼ 32年テーゼ 人民戦線テーゼ |
参考文献 | 歴史年表 |