ラダ・ビノード・パール博士

東京裁判」の判事で唯一の国際法の専門家だったインド代表のラダ・ビノード・パール博士は日本の無罪を主張した。また、2度目の来日の時にも重大な発言をいくつも繰り返している。インドの法学者、裁判官。日本では主に、極東国際軍事裁判(東京裁判)において判事を務め、同裁判の11人の判事の中で唯一、被告人全員の無罪を主張した「意見書」(通称「パール判決書」)の作成者として知られている。

  パール判決書

パール小伝

1886年、インド・ベンガル州の小村に生まれた。三歳にして父を失ったため、家は非常に貧しく、大学を終えるまで経済的な苦難の途を歩んだ。
1905年、彼が19歳のとき、アジアの小国日本が、ロシア白人と戦って勝利を博した(日露戦争)という報道が全インドに伝わった。彼はこのときの感動を次のように回顧している。
「同じ有色人種である日本が、北方の強大なる白人帝国主義ロシアと戦ってついに勝利を得たという報道は、われわれの心をゆさぶった。私たちは、白人の目の前をわざと胸を張って歩いた。先生や同僚とともに、毎日のように旗行列や提灯行列に参加したことを記憶している。私は日本に対する憧憬と、祖国に対する自信を同時に獲得し、わななくような思いに胸がいっぱいであった。私はインドの独立について思いをいたすようになった」
パールは苦学を重ね、カルカッタ大学に入り、奨学金を得て、卒業まで主席を通し、さらに州政府の大学に入った。
1907年に彼は理学士の試験に合格し、数学賞を受け、その翌年、数学の理学修士の学位を受けた。彼の専門は数学だったのだ。彼はさらに法科に進み、1909年、リスボン大学で法科の課程を終え、翌1910年にはインド連合州会計院に就職した。
会計院に務めるかたわら法律を勉強したが、アンナダモハン大学から数学教授として招聘され、そこで教鞭をとった。
しかし、彼の母は彼を法律家にすることが終生の念願だった。彼女は、インド民衆の不幸を救うためには、インドをイギリス帝国の手から奪い返すためには、息子を立派な法律家にすることだという強い信念を持っていた。
この点、ネール首相やガンジー翁の母の願いも同じであった。インドにおいて、白人と平等の立場においてものが言えるのは法律家のみである。パールの母は、常に虐げられたる者の見方、インド民族の救世主たれと、パール青年を鼓舞した。
彼女の念願がかなって、パール青年は法学士の試験にパスした。そこで彼女は彼を高等法院に入れようとした。しかし、そうするためには経済的な問題を解決しなければならなかった。彼女は田舎に家族を連れて戻り、パールは収入のほとんどを勉学に費やすことができ、教鞭をとるかたわら、法学修士の学位を得るために勉強し始めた。不幸にして彼の母は1917年12月この世を去った。
パールの妻は姑がやったのと同じように、家事万端を引き受け、多くの家族の面倒を見ながら経費を切り詰めて夫の研究を助けた。パールは1920年に法学修士の試験を一番でパスし、4年後には法学博士の学位を得た。同じ年に、彼は母校カルカッタ大学タゴール教授職という名誉ある地位に任命された。
1923年9月、彼はカルカッタ大学の法学部教授に任命され、1936年までこの職にあった。その間、1927年には所得税庁の法律顧問となり、1936年にはイギリス枢密院の有名なユール事件の弁護士としてインド政府から派遣された。さらに1937年にはハーグで開かれた国際法学会の総会に招聘され、その会議の議長団の一人に選ばれた。インド人としては最初の議長であり、彼の国際法学会における名声は高まった。
1941年1月、カルカッタ高等法院の判事に就任した。ここに初めて彼の亡き母の修正の念願が叶えられたのである。
1944年には選ばれてカルカッタ大学総長に就任。早々から名総長の名をうたわれたが、1946年3月には総長を辞任した。なぜなら、ネール首相が彼を、日本の「A級戦犯」を裁くための極東国際軍事裁判(東京裁判)のインド代表判事に任命したからである。パール博士の判事就任は、親友であるネール首相の懇請と期待に応えたものである。
東京裁判において、ひとり完全と全員の無罪を主張し、世界の注目を集めた。彼の堂々たる正論と該博なる知識は、国際法学会にその名声を高めた。その後、彼は郷里のカルカッタにおいて弁護士を開業した。1952年には故下中弥三郎の招聘により再び日本を訪れ、世界連邦アジア会議に出席し、各大学、法曹界で講演するとともに、戦犯並びに戦犯の遺家族をねぎらった。さらに1955年には三度来日して大倉山の精神文化研究所で「古代インドの法哲学」の講義を行った。
1960年、インドの最高栄誉であるPADHMA・RRI勲章を授与された。その後ジュネーブにある国連司法委員会の議長の要職につき、世界連邦カルカッタ協会会長に就任し、同時に国際法学会の中心メンバーとして活躍を続け、1967年1月10日、カルカッタの自邸において多彩な生涯を終えられた。

  パール判決書に対する波紋
  パール博士2度目来日


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参考文献 歴史年表