パール判決書(反対意見書)

一般に「パール判決書」と呼ばれているが、正確には「判決書」ではない。東京裁判では「judgement」には、裁判所が出す「判決」と、その裁判に関わった判事が、判決について述べる「意見書」の2種類があった。ラダ・ビノード・パール判事が書いたのは、まさに東京裁判所が下した判決に対する「Dissentient Judgement」つまり「反対意見書」である。つまり、これは東京裁判に反対するために書かれた意見書である。

昭和23年(1948)11月12日、東京裁判の判決が下ったわけだが、11人の判事のうち唯一の国際法の専門家、インド代表のラダ・ビノード・パール判事は英文1275ページ(日本語訳文1219ページ)に及ぶ意見書を提出した。

  東京裁判判決

その中で彼は、東京裁判は勝者が敗者を一方的に裁いた国際法に違反する復讐である、としてその違法性と起訴の非合理性を主張した。そして、「裁判所条例といえども国際法を越えることは許されない」「戦争は法の圏外にある」「日本が戦争を起こしたのは、侵略のためではなく、西洋諸国によって挑発されたためである」「日本は国際法に違反する行為はしていない。国際法上、犯罪行為に当たることをしていない日本は自衛のために武力を行使したのであり、侵攻戦争とても、いまだ国際法上の犯罪とはされていない。東条被告以下、いわゆる『A級戦犯』に指名された者は、無罪として放免すべきである」「この裁判は、国際法に違反しているのみか、法治社会の鉄則である法の不遡及(参照:事後法)まで犯し、罪刑法定主義を踏みにじった復警裁判にすぎない」などとして、被告人の全員無罪を主張した。しかし、この意見は少数意見として祭り去られた

パール博士が三年間の日子を費やし、心血を注いだ判決分は、法廷においては公表されず、多数派の判決のみが、あたかも前判事の一致した結論であるかのように宣告されたブレークニー弁護士は、少数は意見も法廷において公表すべきことを強硬に主張したが、容れられなかった。
パール判決文は、未発表のまま関係者だけに配布され、それが裁判から4年間、書庫深くに埃をかぶったままになっていた。
幾人かがこれの出版を企画した。だが、そのたびにGHQは、出版は自由だが、ただし関係者の身分は保証のかぎりでない、と脅していた。たしかに、これをあえてなすことは、マッカーサーの占領政策に対する真っ向からの挑戦である。

無罪の判決を下したのは、決して日本に対する同情心からではない。裁判官の中で唯一国際法学者として、この東京裁判を認定し、許容すること自体が「法の真理」を破壊する行為だと判断し、こんな「裁判」が容認されれば、法律的な外貌をまといながら、戦勝国が敗戦国を一方的に裁く、野蛮な弱肉強食の世界を肯定することになるという、強い危惧を抱いたためである。

パール以外の判事が観光旅行や宴会にうつつを抜かしている間も、パール博士は、ホテルに閉じこもり、調査と執筆に専念。裁判の間に博士が読破した資料は4万5000部、参考図書は3000部におよんだ。

しかも驚くべきことに、裁判を開く前に判決は決まっていたという事実が後に判明した。
博士が、後にご子息、プロサント氏に「裁判所が判事団に指令して、あらかじめ決めている多数意見と称する判決内容への同意を迫った。さらにそのような事実があったことを極秘にするために、誓約書への署名を強要された」と語り残している。博士はこのようなプレッシヤーの中、断固として同調を拒否し続けた。博士の毅然とした態度は、占領軍、ひいてはアメリカ本国の誤算だった。

パール判決書の中の日本人が覚えておくべき重要コメント:
  • 「戦勝国が敗戦国の指導者たちを捕らえて、自分たちに対して戦争をしたことは犯罪であると称し、彼らを処刑しようとするのは、歴史の針を数世紀逆戻りさせる非文明的行為である」
  • 「この裁判は文明国の法律に含まれる貴い諸原則を完全に無視した不法行為である」
  • 「ただ勝者であるという理由だけで、敗者を裁くことはできない」
  • 「もし非戦闘員の生命財産の無差別破壊というものが、いまだに戦争において違法であるならば、太平洋戦争においてはこの原子爆弾使用の決定が、第一次世界大戦中におけるドイツ皇帝の(無差別殺人の)指令、およぴ第二次世界大戦中におけるナチス指導者たちの指令に近似した唯一のものである」

博士はその判決文の最後を次の言葉で結んでいる。「時が、熱狂と偏見をやわらげたあかつきには、また理性が、虚偽からその仮面を剥ぎとったあかつきには、そのときこそ、正義の女神はその秤を平衡に保ちながら、過去の賞罰の多くにその所を変えることを要求するであろう。

他の重要な点としては、正式の国際条約で決着したことを、この裁判に持ち込んではならないとした。満州国の独立、支那政府と国交を結ぶ条約を締結したことや、ソ連軍との国境をめぐって戦われた張鼓峰事件ノモンハン事件が正式に平和条約で決着していることを指摘した。またソ連軍が日本の敗戦直前に満州に侵攻したことは、ソ連の自衛権の発動とはいえない、とも述べている。アメリカが戦争を早く終結させ、人員の損害を少なくするために原爆を使ったという主張に対しては、同じようなことを第一次世界大戦ではウィルヘルム2世が言っていることを示し、ナチスのホロコーストに近いとまで指摘している。

1952年(昭和27)にパール博士は2度目来日をし、日本人にとって非常に重大な発言をいくつも行なった。

パール判決書の要約に、田中正明氏の解説を加えた本が、日本の占領が解除された昭和27年4月28日に出版された。
日本無罪論-真理の裁き」
占領下では出版を禁じられていたパール判決書の出版準備をひそかにすすめ、占領解除の当日に発行したのだった。しかし、この時点で、「日本無罪論」という題名に猛反発する反日日本人が現れていた。
その後、昭和41年に講談社学術文庫から「共同研究パール判決書」が出版されたが、これは反日団体が出版したいかがわしい本である。本文の前に文庫版で200ページも余計なもの「解説」が付け加え、パール判決書の真意を理解させないようにしている(パール博士は日本無罪論を唱えていないなどと主張している)。現在、パール判決書の全文を読むにはこの「共同研究パール判決書」の文庫版しかなかったが、近年「パール真論(小林よしのり著)」が出版され、パール判決書の真意が理解できるようになった。

「日本無罪論-真理の裁き」が出版される前に、すでに欧米の法曹界・言論界において、このパール判事の「少数意見」が非常な波紋を呼んでいた

  パール判決書に対する波紋

パール博士が日本の法律家に向かって、今世界に巻き起こっている戦犯論争に対して、なぜ沈黙を守っているのかと、奮起を促した理由がわかろう。

東京裁判終了後には、国際法学会は圧倒的多数で東京裁判でのパール判決は正しいと評価を下した。また、博士は国際連合国際法委員会の議長に1958年と1962年から1967年までの間、二度も選出されている。その事実をもって知れば、東京裁判でのA級戦犯を全員無罪としたパール判決の正当性は認められたと同じである。

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参考文献 歴史年表