国共合作を行った孫文は大正13年(1924)に日本の神戸高等女学校で有名な「大アジア主義」の講演を行なったのち、北京に渡って肝臓がんで死去した(1925[大正14])。 そのとき、孫文は遺言で墓を南京郊外の紫金山に指定し、そこに葬られた。 昭和12年(1937)12月、日本軍が南京を攻めたとき、紫金山に大砲を上げて撃つと狙いがつけやすかったにもかかわらず、松井岩根司令官は「孫文の墓があるところだから遠慮しよう」といって使わなかった。それぐらい気を使って南京を攻めた。 南京攻略(1937年) 孫文の死去により国民党は求心力を失い、激しい党内権力闘争が始まった。その凄惨さは北洋軍閥間の内戦以上だった。 孫文の急死と共に国共合作の矛盾は表明化し、その中で台頭したのが黄埔軍官学校長の蒋介石だった。 孫文が死んだ後の国民政府主席に、ボロジンの意向を反映して左派の汪兆銘が選ばれた。汪兆銘は孫文の遺言状に署名した人物で、孫文に最も近いところにいた。 もうひとり、孫文に近いところにいた人物として蒋介石がいた。蒋介石は北伐を主張した。北には清朝の残党ともいえる軍閥が割拠している。これを征伐して、支那を統一したいということだった。蒋介石は軍事委員会主席に推挙され、10万の軍を率い、1926年(大正15)7月から、北京軍閥政権の打倒を目指した北伐を開始する。 北伐(1926年) |
参考文献 | 歴史年表 |