南京攻略(1937年12月)

南京攻略の経過は下表の通り

盧溝橋事件以来、支那事変は次第に拡大しつつあったが、日本政府としては、適当なところで収束させたかった。
しかし、蒋介石第二次上海事変を起こしたことで、日本は南京攻略という強硬手段を決断する。首都である南京を押さえれば蒋介石は講和に応じると考えたのだ。
日本軍は昭和12(1937)12月1日に南京攻略を命令したが、そのたった13日後にはあっさりと決着がついた。そのとき、欧米諸国に難癖をつけられないよう、日本は慎重を期して南京攻略に望んだ。南京には多くの外国人ジャーナリストがいて日本を落ち度をてぐすねをひいて待っていたからだ。
このため、南京城を包囲した日本軍は、まず籠城している国民政府軍にオープン・シティ勧告を出した。しかし、それが拒否されたため、攻め込んだ。
また、総司令官(中支那方面軍司令官)の松井岩根大将は、全軍に軍規の徹底を呼びかけた。
攻撃開始から3日後にあっさりと南京は攻略されたが、講和は叶わなかった既にアメリカ、イギリス、ソ連の後ろ盾を得ていた蒋介石が徹底抗戦の姿勢を示したのである。

この南京戦で日本兵たちは衝撃的な支那兵を見た。自分の足をトーチカ内で鎖につながれ攻撃させられていた兵士、退却してくる味方を射殺する督戦隊などである。日本軍は恐るべき人種と戦ったわけである。

この南京攻略戦で、日本軍が支那兵や支那の一般市民を不法かつ大量に殺害したと一部の連中が騒いでいるのが、いわゆる「南京大虐殺」である。

  虚構の「南京大虐殺」
  上海・南京戦での困難


南京戦の詳細

日時 支那側の行為 現地日本軍の対応 日本政府、陸軍中央の対応
11月19日 南京国民政府、首都を重慶に移すことを決定する。
12月1日 大本営は従来の方針を変更して、松井司令官に対して「海軍と協力して南京を攻略すべし」との命令を下した。
12月5日 中支那派遣軍は蘇州に前進。
南京戦が始まる前、裕福層は脱出したが、なお多くの住民が残っていた。そこで在住外国人が住民避難のための安全地帯を作り、「南京安全地帯国際委員会」を組織。
12月6日 南京防衛司令官の唐生智とうせいち)はすべての城門を閉鎖した。このため城外の取り残された敗残兵は郊外各所の町や部落で略奪・放火などの自暴自虐の狂演を繰り広げるに至った。「南京事件」はすでにこのとき、支那軍自身の手によって開始されていたといえよう。
12月7日 蒋介石、夫人の宋美齢、何応欽軍政部長などみんな南京から敵前逃亡する。南京城の守備は南京防衛司令官の唐生智とうせいち)に任される。
12月9日 攻撃を前にした松井岩根軍司令官は「日軍百万すでに江南を席巻せり。南京城はまさに包囲の中にあり。今後の交戦は百害あって一利なし・・・日軍は抵抗者に対しては極めて峻烈にして寛恕せざるも、無辜の民衆及び敵意なき支那軍隊に対しては寛大をもってし、これを犯さず。東亜文化に至りてはこれを保護保存するの熱意あり」と説いて、南京城を平和裡に明け渡すことを求める投降勧告文を作らせた。
この勧告文は12月9日、飛行機により南京城内に散布された。
12月10日 国民政府オープン・シティ勧告に応ぜず
2:00 日本軍、南京城攻撃開始。城壁で頑強な抵抗にあう。
12月12日 南京防衛司令官・唐生智は多数の軍民と共に降伏声明も出さずに場内から脱出。司令官を失った支那軍は混乱状態となる。南京城から脱出しそこない逃げ場を失った多くの兵士は便衣(平服)に着替えて安全地帯にもぐりこむ者が多く、敗残支那兵のご多聞に洩れず、市民に対する略奪、暴行、放火の発生したことが居留外国人によって各所で目撃されている。。
12月13日 早朝、敵が大方逃げ出したので南京城内に突入する。各所で敗残兵、便衣隊の抵抗があったが、何とか南京城の占領を完了
12月16日 掃討ほぼ終了
12月17日 入城式
南京に残った住民は、略奪を行なう支那兵がいなくなり、軍規の厳しい日本軍が来て喜んだ

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参考文献 歴史年表