支那事変の勃発は、ただちに日米関係を悪化せしめたわけではなかった。 当時のアメリカの極東政策の基調は、国務長官・コーデル・ハルのいわゆる「中道政策」を採用していた。 アメリカが中道政策を採用した理由は以下のこと等が考えられる。
これに対して、日本はハルの声明の諸原則には賛同するが、それらの適用に際しては、支那に発生しつつある「特殊事情」についての現実的認識が必要である旨を回答したのであったが、これが以後、日本の支那事変をめぐる対米姿勢の基調となっていく。 日本側は昭和12年(1937)9月、広田外相が植田駐満大使に「列国との関係を悪化せざるために他国を刺激する言動を慎み、極力事端の発生を避け、事端発生の場合には速やかに穏便解決に努力すること」と指示していた。 このように支那事変勃発当初においては、日米双方ともそれぞれの立場は主張しつつも、事変をして両国関係を悪化せしめざるよう、その言動において慎重な配慮を施し、相手を刺激せぬよう極力努めていたのだ。 参考文献:大東亜戦争への道 (中村 粲) |
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