当初は「北支事変」と呼ばれていたが、後に支那事変(日支事変、日華事変)と呼ばれ、近年では反日マスコミ、反日知識人だけでなく彼らに洗脳されたか一般のマスコミ・歴史書まで「日中戦争」と呼んでいて、非常に紛らわしい。 「日中八年戦争」 昭和12年7月7日に、盧溝橋付近に駐屯していた日本軍(支那駐屯軍)に支那の共産分子が銃撃を行なったことから盧溝橋事件が勃発した。 盧溝橋事件 日本政府は2日後の閣議で不拡大、現地解決の方針を確認、いったん決めた内地からの三個師団派遣も凍結させるなど慎重姿勢を貫いた。7月11日には北平(北京の当時の名称)で、現地停戦協定が結ばれた。 しかし、支那国民政府の蒋介石は、支那国民に日本への徹底抗戦を呼びかけた。これに対して、日本でも軍部にくすぶっていた強硬論が強まった。 こうした中、7月25日には郎坊事件、26日には広安門事件という、いずれも支那軍が日本軍を一方的に攻撃する事件が起きた。 郎坊事件(7月25日) 広安門事件(7月26日) これを機に日本政府は不拡大の方針を撤回、留保していた内地三個師団の派遣を命じた。 支那があまりにも停戦協定に対して背信行為が多いので、とうとう我慢できなくなってこの不拡大方針を撤回するのが7月の終わり、支那に対して最後通告を出して戦闘を始めるのが7月28日だった。7月28日、支那駐屯軍は宗哲元率いる第29軍への総攻撃を開始した。するとそれまで日本を挑発していた支那軍はあっという間に北京、点新築を放棄して南の方へ逃げてしまう。日本軍はわずか1日あまりで北京・天津地区を平定する。 日本が優位に立った7月29日、天皇陛下から近衛首相に、もうこのへんで外交交渉で決着させてはどうか、という意向が伝えられた。そこで外務省が和平案を作成することになった。日本が北京・天津地方を占拠して圧倒的に優位にあるときに、支那に対する和平提案の発想が生まれていたのだ。 船津和平工作 ところが、7月29日、北京東方の通州で、支那の保安隊が在留日本人を襲い、軍人や民間の女性、子供を含め280人を虐殺する虐殺事件(通州事件)が起きる。 通州事件(7月29日) この虐殺事件が日本に伝えられると、収束しかけていた反支那感情が再び高まった。 さらに、8月9日には上海で、日本海軍陸戦隊の大山勇夫中尉ら2人が支那の保安隊に射殺される事件が起きた(大山事件)。これで船津和平工作は挫折してしまう。 大山事件 海軍は即時、佐世保から軍艦や特別陸戦隊3000人を派遣、政府も陸軍を上海に派遣することを決め、13日には支那便衣隊との間で激しい戦闘となった(第二次上海事変)。 第二次上海事変 蒋介石政府が敵対関係にあった支那共産党とも手を結んで抗戦姿勢を強め、8月15日には、支那国民党政府が対日抗戦の総動員令を発令した。これに対し日本政府も同日、国民政府への「断固膺懲(ようちょう、「懲らしめる」の意)の声明を出し、日本と支那は抜き差しならない全面戦争へと突入する。 華北から華中、華南へと展開していた日本軍は昭和12(1937)年12月10日、国民政府のあった南京を攻撃、13日には陥落させた。 南京攻略(12月13日) しかし、すでに南京を放棄していた蒋介石は四川省の山奥にある重慶に国民政府の拠点を移し、さらに徹底抗戦を続けた。 重慶政府 この間、国際的にはアメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルトが「好戦分子は、伝染病患者のごとく隔離されなければならない」と、日本などを批判する隔離演説を行い、アメリカは公然と支那国民党を支持するようになり、ソ連も国際連盟での席で日本を非難した。 一方で、ドイツのトラウトマン駐支那大使による和平への仲介工作も行なわれたが不調に終わった。 第一次、第二次トラウトマン工作 盧溝橋事件の直前に政権の座についていた近衛文麿首相は、翌昭和13(1938)年1月、「国民政府を相手にせず」とする声明を発表。 近衛声明「国民政府を相手にせず」 この声明が和平への道が遠のいたといわれる。また、国民政府の中の対日和平派だった汪兆銘は1938年に重慶を脱出して、南京に親日政府を樹立したが、支那事変は一層の泥沼化をたどった。 汪兆銘、重慶脱出 南京政府樹立 日本軍は1940(昭和15)年5月から重慶に対する本格的な攻撃を開始したが、アメリカなどから莫大な支援を受ける国民政府側は降伏せず、そのうち大東亜戦争が勃発。 大東亜戦争 支那事変が終わるのは昭和20年8月の日本の敗戦ということになる。 休戦協定調印 この支那事変は、日本政府も蒋介石の国民政府も共に国際法上の戦争にする意思がなかったので、支那事変(チャイナ・インシデント)と呼んだ。1941(昭和16)年12月9日に、蒋介石政権が日本に向かって宣戦布告したので、この事変は国際法上の正式の戦争となった。日本政府は12月10日に、支那事変を含めて「大東亜戦争」という名称を定めた。 支那事変において、被害者は日本の方だった。日本は支那の反日侮日の陰謀と挑発にまんまと乗せられた。好戦的にして無責任な支那各勢力の罠にはまり、いくら和平交渉を試みても、支那内戦のブラックホールに吸い込まれ、抜け出すことはついにできなかった。 支那事変が侵略などというのは全くのねつ造である。それは支那内戦に対する日本の道義的・人道的介入であったといえる。 東京裁判で共同謀議だとされた根拠のひとつとしてこの北支事変が挙げられた。日本が華北を支配したというのだが、これは日支の衝突が連続的に生じたものであって、共同謀議ではない。そして、日本から仕掛けたことは一度もない。すべて受け身だった。 東條英機被告が宣誓供述書で言っている、自衛のための受け身の戦いだったという証言が正しい。東條のみならず、マッカーサーですらそれを認めている。 マッカーサー「自衛戦争」証言 |
参考文献 | 歴史年表 |