支那事変の発端となった事件。詳細はこのページの下に表で記載してある。 詳細を見れば支那のほうから戦争を仕掛けてきたのは明らかである。現在では、研究が進み、最初に撃ってきたのは国民党軍の中に入り込んだ支那共産党のスパイであったことが明らかになっている。要するに蘆溝橋事件は毛沢東率いる共産党軍の謀略だった。事件直後に、「成功せり」という電報が支那共産党の司令部に打たれていた。 当時の共産党軍は国民党軍による掃共戦(共産党掃討)で連敗し、ほとんど壊滅した状態にあり、それを打開するために国民党軍と日本軍を戦わせて漁夫の利を得ようとしたのだ。 支那側から何度も攻撃されたにもかかわらず、日本軍のほうはすぐには反撃しなかった。日本側は必死になって事件を拡大させまいとしていた。しかし、日本が少しでも慎重になると支那側は、臆病、怖いから、と勝手に解釈して攻撃してきた。 現在の支那(中華人民共和国)は今でも嘘を並べ立て、日本軍謀略説を言い立てている。「金振中回想」などは歴史偽装の見本である。 よく「なぜ日本軍がそんなところにいたのか。そんなところにいた日本軍が悪い」などと言う無知な者の発言をよく見かけるが、それは北清事変の協定で駐在することになっていたからである。日米安保条約によって横須賀にアメリカ軍がいるのと変わらない話である。 北清事変(1900年) 当時の参謀本部作戦部長だった石原莞爾は支那とは戦争をしない方針だった。五ヵ年計画を繰り返して機械化部隊を強化しているソ連に対応することが日本陸軍にとって最重要課題であり、支那とは戦争する暇などないと考えていたのである。 日本は三週間不拡大方針を維持した。しかし、現地で協定を結ぶと、それが破られるということが繰り返された。国民政府軍に入り込んだ共産党分子が日本を戦争に巻き込めというコミンテルンの方針に従って挑発をやめなかったのだ。 残念なことに事件はこれで終わらなかった。日本国内では、社会主義改革を目論む新官僚と政治的軍人たちが継戦を訴え、当時の近衛文麿内閣にはそれを抑える力がなかったのである。二・二六事件以来、軍部に逆らえる政治家は、ほとんどいなくなっていたのだ。 東京裁判では支那事変について調査したが、途中で中止になった。満洲事変の何年も前の張作霖爆殺は時間をかけて調べているにもかかわらずである。支那共産党の陰謀とわかり、調査が中止になったと考えるのが自然であろう。 日本人が支那に対して負い目を感じている人がいるのは、盧溝橋事件は日本が始めたと思っていることが少なからぬ影響を与えている。しかし、盧溝橋事件は日本が始めたものではないことを忘れてはいけない。 上海事変勃発後に出された日本政府の「盧溝橋事件人関する政府声明」 図らずもこの盧溝橋事件によって対支交戦状態に入った日本は、速やかに戦闘を終結して東洋平和を実現せんとの念願より、様々な対支和平工作を事変当初から試みる。実に昭和20年終戦直前に至るまで様々な形の対支和平の努力が試みられては挫折していくことになる。 船津和平工作(1937年8月) 第一次トラウトマン工作(1937年11月) 第二次トラウトマン工作(1937年12月) 朝日新聞が盧溝橋事件に際してどう書いていたかは非常に興味深い。 「北支駐屯軍の演習 条約に基づく権利」(昭和12年7月10日付東京朝日新聞) 「わが軍の応戦は全く自衛手段」「演習は条約上の権利」(昭和12年7月10日付大阪朝日新聞) 「日本が穏健政策に立還ればすぐに図に乗ってくる、グワンとやられてやつと引込む」(昭和12年7月9日付大阪朝日新聞「天声人語」) 「もともと我方から仕かけたことではなく、また仕掛けるいはれもない小ぜり合ひだ・・・向ふがひっこみさへすればそれで事態は収まるのである」(昭和12年7月10日付大阪朝日新聞「天声人語」) 朝日新聞も戦前はまともなことを書いていたわけだ。 |
日時 | 支那側の行為 | 現地日本軍の対応 | 日本政府、陸軍中央の対応 | |||||
7月7日 | 22:40 | 盧溝橋付近に駐屯していた日本軍(支那駐屯軍)が演習を終えた時、突如数発の銃弾が河畔堤防の竜王廟付近よりなされた。(当時はわからなかったが、支那の共産分子が日本軍に銃撃を行なったのだった。日本軍と国民党軍をけしかけるために行なった支那共産党の陰謀であった。) | ||||||
再び十数発の銃撃が日本軍に向かって浴びせられた。 | ||||||||
日本軍は軍使を派遣することになった。 | ||||||||
7月8日 | 3:25 | 再び竜王廟方向より三発の不法射撃が行われた。 | ||||||
4:20 | 砲撃を受け、日本軍の連隊長は攻撃を許可したが、事件拡大を恐れて、直前で攻撃を中止した。 | |||||||
5:30 | 日本の攻撃中止を臆病だと思った竜王廟の支那兵は日本軍に猛射を浴びせてきた。 | |||||||
事ここに至って日本軍もついに反撃の火ぶたを切った。(最初に不法銃撃を受けてから実に7時間、一発の応射もせず隠忍自重を堅持したのだった) | ||||||||
この戦闘で敵兵の遺体を調査したところ、攻撃していたのは支那29軍正規兵であることが判明。 | ||||||||
事件の不拡大、現地解決を決定する。 | ||||||||
杉山陸相は内地3個師団の派兵を主張したが、広田外相をはじめ全閣僚が全面戦争誘発の危険ありとして反対。 | ||||||||
7月9日 | 2:00 | 現地停戦協議成立。 | ||||||
当時河辺旅団は、宛平県城の攻撃を開始する体制にあったが、停戦協議成立の報を得たので、攻撃準備停止を命令。 | 停戦協議成立を受け、派兵提案は見送られる。 | |||||||
7月10日 | 停戦協議が成立したにもかかわらず支那軍が協議で約した撤退をせず挑発を続ける。 | |||||||
支那の挑発に加え、中央軍北上の報も伝えられたため、政府は関東軍より2個師団、朝鮮軍より1個師団、内地3個師団を派兵することを内定。 | ||||||||
7月11日 | 差し当たり内地3個師団を派兵することを閣議決定。 | |||||||
8:00 | 停戦協定が成立 | |||||||
停戦協定成立を受け、内地師団動員を見合わせる。 | ||||||||
盧溝橋事件を「北支事変」と命名する。 | ||||||||
7月13日 | 10時 | 停戦協定はまたもや支那側によって破られた。北平大紅門を通過中の日本の天津砲兵隊修理班が支那兵に襲撃され、4名が虐殺される。停戦協定から40時間と経っていなかった。 | ||||||
7月14日 | 天津駐屯騎兵隊が通州を経由して豊台に向かう途中、落鉄のために遅れた近藤二等兵が支那兵に襲撃され、惨殺される。近藤二等兵は軽機の銃弾を六発受けて即死し、倒れた後、青竜刀で頭を二つに割られ、脳漿はなく、右脚も無残に切り落とされていた。目も当てられぬ残忍な殺し方だった。 | |||||||
7月19日 | 停戦協定中の第三項排日取り締まりに関する細目協定成立 | |||||||
7月20日 | 協定に基づき保安隊と交代するため撤退するはずの盧溝橋城の支那軍が日本軍に一斉射撃を開始。 | |||||||
支那の一斉射撃に対して、日本軍も盧溝橋城に対して砲撃を行う。 | ||||||||
支那側の不法射撃に、日本政府は同日夜、動員発令後も事態が好転すれば直ちに復員するという条件付きで、陸軍中央が前日に内定していた内地三個師団の派兵を承認。(二度目の派兵決定) | ||||||||
7月21日〜22日 | 現地から戻った軍務課長から、満洲・朝鮮からの増派で十分であり、内地師団の派兵は必要ない旨の報告を受ける。また、天津軍参謀長よりも、冀察が19日の細目協定を実行しつつあり、支那軍が撤退を開始したことを伝えてきたため、再度内地師団の派兵を見合わせる。 | |||||||
7月25日 | 日本側の善意と忍耐も空しかった。廊坊(ろうぼう)の電線修理に派遣された日本の電信隊一個中隊が支那軍に包囲され、攻撃される。(廊坊事件) | |||||||
7月26日 | 北平(北京)居留地保護のため支那側と諒解を遂げた上で北平・広安門を通過中の天津駐屯軍が、城壁上の支那軍より乱射浴びる。(広安門事件) | |||||||
二回にわたる騙し討ち(廊坊事件・広安門事件)を受け、不拡大方針を変更せざるを得なくなり、陸軍中央は見合わせていた内地三個師団の動員を命じる。陸軍不拡大の中心たる石原莞爾までもがあきらめた。閣議はただちにこれを承認。 | ||||||||
7月27日 | 「北支事変」を「日支事変(日華事変)」と改める。 | |||||||
7月28日 | 日本は支那軍の一片の誠意に信を置き、それゆえに盧溝橋事件発生以来三週間にわたってあらゆる侮辱に耐え、隠忍自重に努めた。だがここに至っては武力不行使の大方針も放棄する他なくなる。 | |||||||
日本軍(天津軍)は支那第29軍に開戦を通告。同払暁より全面攻撃を開始。 | ||||||||
7月29日 | 支那第29軍は南へ敗走。 | |||||||
日本軍、平津(北平・天津)地域の平和を回復する。 | ||||||||
北平東方の通州で、支那保安隊による大規模な日本人虐殺事件が発生。(通州事件) |
参考文献 | 歴史年表 |