第二次上海事変(1937年8月)

事変の経過は下表の通り。

この事変で蒋介石が狙ったのは、「日本が支那を蹂躙している」というイメージを作り出し、国際世論の同情を集めることだった。世界の注目を集めるために一般市民の犠牲も厭わなかった。

この第二次上海事変も、反日・自虐史観では、日本が攻撃を仕掛けたことになっている。

  船津和平工作
  大山大尉虐殺事件
  上海・南京戦での困難


第二次上海事変の詳細

日時 支那側の行為 現地日本軍の対応 日本政府、陸軍中央の対応
第二次上海事変前の状況
8月9日 大山事件起こる。これにより船津和平工作が頓挫。
8月11日〜12日 支那の偽装保安隊1万2000人が上海停戦協定を無視して協定線内に侵入し、陣地構築を開始。上海は俄然緊迫の度を増した。
陸戦隊は兵力不足のため支那側の挑発皇道に対しても対抗措置を取ることを控えてきたが、一触即発の状況が現出するに及んで、やむを得ず邦人居留者の多い所に警備兵を配置することにした。
8月12日 蒋介石軍、日本総領事館と商社の電話線を切断する。
12日夜は、陸戦隊の慎重な警備により、事端を発することなく過ぎた。
8月13日 蒋介石軍、租界から外に通じる道路を全て遮断する。日本軍との緩衝用に、多くの支那人一般市民も閉じ込められる
9:30 支那便衣隊が日本の陸戦隊に対して、突如機関銃を浴びせた。
午後 再び警備兵に対して機関銃射撃が行われた。
不拡大方針に基づいて日本軍は応射しなかった。
5時近く 支那軍は数か所の橋を爆破するとともに砲撃を開始
上海海軍特別陸戦隊司令官は「全軍戦闘配置につき警戒を厳にせよ」と下令、日本軍はクリーク対岸の敵拠点を焼き打ちして、その気勢をくじいた。
現地海軍からの要請に基づき、上海の支那軍砲撃を受け、内地2個師団の上海派遣を決定。
8月14日 10:00 支那爆撃機数機が上海上空に飛来、日本の陸戦隊本部、総領事館、軍艦、船舶の他、市街地にも爆弾を投下。
夕刻 支那の爆撃機十数台は黄浦江に停泊中の日本軍の旗艦「出雲」に編隊爆撃を試みるが命中せず、日本の高射砲や機関銃の猛射により一機は撃墜され、他の爆撃機は血迷って共同租界、フランス租界へところ構わず爆弾を投下して逃げた。このため無辜の市民多数が犠牲になった。イギリス人経営のパレス・ホテルとカセイ・ホテルも爆撃され、外国人を含め、2百数十名が殺害される。この中には後の駐日大使となるライシャワーの弟も含まれていた。結局、攻撃により計3600名あまりが死傷した。日本が欧米からの要請に応じ、撤兵を決定したあとにこの盲爆が行われた。
蒋介石はこの攻撃によって上海における第三国の権益に損害を与え、対日非難を引き出し、国際問題にしたかったらしい。
支那軍の先制攻撃に対し、日本海軍航空隊もこの暴状を懲らしめるため夕刻より各地の敵飛行場を爆撃
政府は二個師団の動員令を下す。
8月15日 翌15日、荒天をついて南京・上海方面に対して渡洋爆撃を敢行し、敵空軍基地に打撃を与えた。
支那は全国総動員令を下し、大本営を設置して蒋介石が陸・海・空三軍の総司令に就任、政治・経済・軍事にわたる広範囲な戦時体制を実施。かくして日本と支那の全面戦争へ突入することになった。
上海盲爆を受け、「上海派遣軍(軍司令官・松井岩根大将)」の編成派遣を下令。派遣軍の任務は「海軍と協力して上海付近の敵を掃滅し、上海並びにその北方地区の要線を占領し、帝国臣民を保護すべし」というものだった。
同時に、「盧溝橋事件に関する政府声明」を発表。
8月24日 当時陸戦隊は十数倍の支那軍と対峙して苦戦していたため、上海派遣軍は応急動員のまま出発、8月24日未明より呉松およびその上流揚子江岸に上陸。
9月2日 閣議で「北支事変」を「支那事変」と改称することに決定。
クリークとトーチカによる支那軍15万の抵抗は激しく、日本軍の攻撃は9月に入ってから停滞し、兵員の損害も急増。
統帥部は台湾から1個師団、内地から3師団、野戦重砲旅団などを増派。
10月20日 統帥部は上海戦の膠着状態を打開するために第十軍を編成。
10月下旬 激戦の末、支那軍は撤退を開始。
上海派遣軍は進撃に移る。
10月26日 大場鎮を占領、進んで蘇州河を超える。
11月? 蒋介石、第一次トラウトマン工作の和平条件を拒絶
11月5日 第十軍、杭州湾上陸作戦実施。
11月7日 上海派遣軍と第十軍を合わせて「中支那方面軍」が編成され、松井岩根大将が軍司令官となる。(この中支那方面軍が国民政府の首都南京を目指すことになる
陸軍中央は、戦闘を上海地区に局限する考えで、中支那方面軍司令官に対して作戦地区を蘇州-嘉興の線以東と指示。
11月9日 日本軍、大上海全地域を制圧。11月8日までの上海戦における日本軍の戦死者は9015名、負傷者は3万1257名に及ぶ。この戦いは日本にとり日露戦争の奉天会戦以来の大規模なものとなってしまった。世界的にも、このような塹壕突破戦は第1次大戦以来のものであった。(ちなみに、南京占領までを合算すると、戦死者は2万1300、負傷者は5万余に達する大激戦となる
11月19日 南京国民政府、首都を重慶に移すことを決定
11月24日 追撃戦の進行とともに限界線は西方へ移動したため、無錫-湖州が新たな作戦限界線として指示。
12月1日 参謀本部の作戦課長が中支那方面軍司令部に出張し、各兵団とも上海戦以来、疲労を重ねているので南京作戦は将来の問題にしたいと述べたが、松井軍司令官は南京占領の必要と成算を再度具申したため、大本営は従来の方針を変更して、松井司令官に対して「海軍と協力して南京を攻略すべし」との命令を下した。
12月5日 中支那派遣軍は蘇州に前進。
これ以降は南京攻略

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参考文献 歴史年表