松井岩根

陸軍大学校を首席で卒業した後、エリートが行く欧米ではなく、自ら愛する支那を希望して、北京、上海など、支那に16年間、駐在武官として赴任した。
南京攻略戦当時、終世愛してやまない支那との戦いの総司令官(中支那方面軍司令官)に任命されたことは運命のいたずらである。
南京において日本軍は、残虐行為を行い、非戦闘民を大虐殺したかのように言う者がいまだにいる。
実際には、南京攻略戦の途中、松井は焼け跡から赤子の泣き声が聞こえると、秘書に「探して来い」と命じ、救助した女の赤子に松井の一字をとって松子と命名して可愛がった。南京の入場式には、秘書がこの赤子を背負って入場していた。
松井は、日本軍が南京に入城する前に次のように言っている。
「これからは敵の首都に入るのである。世界中が注目しているのだから、後ろ指さされるようなことをしてはならない」
南京城のすぐ東側には中山陵(ちゅうざんりょう)という高台があるが、松井は中山陵に大砲を上げることを禁止した。そこに大砲を引き上げてそこから城壁や城内に砲撃すれば有利なのだが、中山陵には孫文の記念碑があるため松井大将は遠慮したのだ。それほどまでに気を使う司令官が「大虐殺」を命令するだろうか。組織的にやらなければ大虐殺など絶対にできない。松井大将は東京裁判の法廷で「南京大虐殺」なるものは戦後アメリカ軍の放送で初めて知ったと述べている。
また、帰還後の昭和15年には、「死んだら敵も味方もない。よろしく一緒にまつろうではないか」と松井は提案し、日支両軍の鮮血で染まった激戦地の土を取りよせ、陶製の観音像を作り、興亜観音と名付けて、熱海市伊豆山に祭祀した。
松井は、その興亜観音の山裾に庵を結び、昭和21年4月29日に「A級戦犯」として起訴されるまで、堂主として、雨の日も風の日も2キロ以上の参道を観音堂の参詣と朝夕の読経をかかさず、修行僧のような生活を送っていた。
そして巣鴨プリズンでも、興亜観音に向かって座禅し、処刑されるまで朝夕読経三昧の日々であった。

  南京攻略
  「南京大虐殺」
  東京裁判判決
  「A級戦犯」7人処刑


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参考文献 歴史年表